民放労連女性協議会

声明「財務次官セクハラ疑惑と政府の対応に強く抗議する」
財務次官セクハラ疑惑と政府の対応に強く抗議する

www.minpororen.jp/?p=798

2018年4月18日
 民放労連女性協議会
 日本民間放送労働組合連合会

週刊誌の報道に端を発した財務省・福田淳一事務次官による女性記者へのセクシャル・ハラスメント疑惑に関し、麻生太郎財務大臣並びに財務省は女性の人権を軽視し、報道機関への圧力ともとれる対応を続けている。民放労連女性協と民放労連は、財務省の対応に強く抗議する。また、各メディア企業に対しては、被害者保護のためにあらゆる対策を講じるよう求める。

一、福田次官、麻生大臣、財務省の対応について
財務省が顧問契約を結ぶ弁護士事務所に被害者本人から名乗り出るよう求めている点について、強く抗議する。「調査協力要請」は記者に求められる取材源の秘匿の観点からも到底応じられるものではない。さらに、名乗りでるという行為は、取材者としての立場を揺るがすものである上、プライバシーが保証されるのかも明確ではない。これは、セクハラの二次被害を生み出すとともに、報道機関への圧力・攻撃になる。
麻生大臣は、福田次官のセクハラ疑惑が報道された当初、調査をしないという方針を示した。その後も、被害者女性が名乗り出ない限り事実認定が難しいとの考えを示すなど、セクハラ被害を真剣に受け止めない態度を続けており、到底看過できるものではない。このような姿勢は、被害者があたかも加害者であるかのように扱う風潮を助長し、被害者の立場を著しく貶めるものである。
「女性活躍」を掲げてきた安倍政権であるはずなのに、一連の政府の対応を見ると「女性の人権」を軽んじているようにしか見えない。「女性活躍」をうたう政権として、その基盤となる「女性の人権」に真摯に向き合う事が求められている。政府はまず、福田次官への事情聴取・事実確認を行い、さらに、同様のセクハラが他の省庁でも行われていないか徹底的に調べるべきである。

一、報道機関である企業の取るべき対応について
私たちは、セクハラへの徹底した対策を各社に要求する。放送局の現場で働く多くの女性は、取材先や、制作現場内での関係悪化をおそれ、セクハラに相当する発言や行動が繰り返されてもうまく受け流す事を暗に求められてきた。たとえ屈辱的な思いをしても誰にも相談できないのが実態だ。この問題はこれ以上放置してはいけない。記者やディレクター、スタッフ、そして出演者らが受けるセクハラは後を絶たないのに、被害を受けたと安心して訴え出られるような環境も整っていない。このような歪みを是正しなければ、健全な取材活動、制作活動は難しくなる。
決して、被害を訴え出た側が責められるようなことになってはならない。「それくらい我慢するべきだ」「しょうがない」など個々人に負担を強いる指示や黙認は、セクハラを傍観し、容認する態度であり、到底許されない。
視聴者の半数は女性である。本来、伝え手である記者やディレクター、スタッフ、出演者は受け手と同じ比率で女性がいるべきであるが、現段階では二割程度にとどまっており、現場を指揮する意思決定層に至ってはほとんど女性がいない現実がある。本件のような問題に際して「現場に女性を出すな」といった安易な対応は、取ってはならない。


以 上

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大阪市のヘイト認定「実名やめて」、条例違憲と市長を提訴

大阪市のヘイト認定「実名やめて」、条例違憲と市長を提訴
https://www.sankei.com/west/news/180416/wst1804160056-n1.html

 ヘイトスピーチをした団体や個人名の公表を定めた大阪市の抑止条例は表現の自由などに反し違憲だとして、動画投稿のアカウント名を公表された近畿地方に住む40代男性が16日、吉村洋文大阪市長に対し、実名公表の手続きをしないよう求めて大阪地裁に提訴した。
 条例はヘイトスピーチの具体的な抑止策を定めた全国初の条例として平成28年7月に全面施行された。市はこれまでにインターネット上の動画投稿4件をヘイトスピーチと認定し、動画内容を投稿者のアカウント名と共に公表。守秘義務があるサイト運営者からは氏名が開示されず、実名を明らかにした例はない。
 訴状によると、男性は25年2月に大阪市内で行われたデモを撮影した動画を投稿し、市は29年6月に認定した。男性側は、動画投稿には日韓外交を巡る政治的言論の側面があるとして「実名公表制度は表現の自由に関わる制裁でプライバシーの侵害にも当たる」と主張。「もし市が特定できたとしても公表は許されない」と訴えている。
 市は「訴状が届いていないためコメントは差し控える」としている。

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衆議院議員長尾秀樹君提出地域共生社会の実現と隣保館の役割に関する質問に対する答弁書

www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b196105.htm

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2018.1.26 全国人権連政府交渉の記録

http://zjr.sakura.ne.jp/?p=1278

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ヘイト発信者の特定に壁 大阪市

https://digital.asahi.com/articles/ASL3X6SJVL3XUTIL05G.html?_requesturl=articles%2FASL3X6SJVL3XUTIL05G.html&rm=609

「201843.pdf」をダウンロード

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第2期川崎市人権施策推進協議会 答申

第2期川崎市人権施策推進協議会 答申について
2018年3月28日

http://www.city.kawasaki.jp/250/page/0000096628.html

第2期川崎市人権施策推進協議会は、平成28年7月13日に市長から「差別や偏見のない社会を実現するための施策の強化」について諮問受け、この間、審議を重ねてきました。
その内容が答申としてまとめられ、次のとおり市長に提出されました。

1 提出日時 
 平成30(2018)年3月28日(水) 午前10時00分
2 タイトル 
 「差別や偏見のない社会を実現するための施策の強化」について(答申)

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京都府がヘイトスピーチを“事前規制”

京都府がヘイトスピーチを“事前規制”へ 「ネット上の発信内容もチェック」
www.mbs.jp/news/kansai/20180322/00000054.shtml

 特定の民族や国籍の人に対し差別的な言動を行うヘイトスピーチ。全国各地で問題となり国が対策法をつくるなど規制の動きも進んでいますが、京都府は公共の施設でヘイトスピーチが行われる恐れがある場合、つまりヘイトスピーチをしそうな人が施設を使いたいと申請してきた場合に、「使用を認めない」「許可を出さない」という方針を固めました。これは全国でも珍しい試みです。というのも、ヘイトスピーチは確かに許されませんが、この人が何を言うかがわからない段階で行政が規制をかけることはできるのか、という問題があるからです。

 京都では、2009年に「在日特権を許さない市民の会」いわゆる在特会が朝鮮学校前で憎悪に満ちた言葉で罵倒を繰り返すなどのヘイトスピーチが行われました。

 こうした中、国はおととし「ヘイトスピーチ対策法」を制定し、各自治体にヘイトスピーチ解消に向け取り組むよう求めてきたのですが、それを受け京都府が打ち出したのが「公共の施設でヘイトスピーチが行われると予想される場合、施設の利用を許可しない」という方針。まだ行われていないヘイトスピーチに対して事前に規制をかけるのは神奈川県川崎市に次いで全国2例目です。

 「街頭宣伝活動が行われるのは公園であったり、不特定多数の方が集会を行うことが可能な施設。事前にヘイトスピーチが行われることを防止していく」(京都府人権啓発推進室 浅野浩司参事)

 一方、大阪市は全国に先駆けてヘイトスピーチ対策の条例をつくり、ヘイトスピーチを行った団体や個人の氏名を公表するとしていますが、公共施設の使用については制限していません。「事前にヘイトスピーチをするかどうかは判断できない」として見送られたのです。

 「さまざまな市民の活動を公権力である役所があらかじめ抑制するというのは、本来の姿ではない」(吉村洋文大阪市長・2016年)

 では、京都府はヘイトスピーチが行われると事前にどう判断するのでしょうか。

 「申請書や申請者の説明などから、事前に判明している集会のテーマや言論の内容を判断材料にする。もうひとつは、申請者の方々が過去に行った集会の内容やそこで行われた言動についても判断材料としたい」(京都府人権啓発推進室 浅野浩司参事)

 ネット上での発信内容などもチェックし、ヘイトスピーチが確実に行われると客観的に予測できるか調査。弁護士などからなる第三者機関の意見も聴いた上で、総合的に判断するとしています。

 「憲法で保障された表現の自由、集会の自由を不当に侵害することだけは絶対にあってはならないので、一つ一つ丁寧に判断していくことが求められる」(京都府人権啓発推進室 浅野浩司参事)

 京都府は「この取り組みをきっかけに、ヘイトスピーチ解消に向けた府民の理解が深まることを期待したい」としていて、新しい方針について今月中にも運用を始める予定です。


ヘイト根絶議案可決
川崎市議会
https://www.townnews.co.jp/0206/2018/03/23/424898.html

 川崎市議会は今月16日、「ヘイトスピーチの根絶に関する決議案」を全会一致で可決した。

 決議文は、公園や市民館などの公的施設でヘイトスピーチを事前規正するガイドラインが今月末から施行されるのを前に、市にガイドラインの適正運用を求め、ヘイトスピーチの根絶の意思を示すねらいがある。

 複数の関係者によると、決議案は自民、公明、共産、民進みらいの4会派から提案。議決前には1人の議員が退席したが、議場にいた残りの議員全会一致で可決したという。

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2018.1.26 全国人権連政府要求書

http://zjr.sakura.ne.jp/?p=1276

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香山リカ 名護市長選が終わって

香山リカ

名護市長選が終わって思うことーそして、生活は続く
2018/2/5 12:01
https://lineblog.me/kayamarika/archives/9319603.html

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三条河原(東三条)/上 技で差別をはね返す /京都

街角のマナび場
/14 三条河原(東三条)/上 技で差別をはね返す /京都
毎日新聞2017年12月21日 地方版
京都府
https://mainichi.jp/articles/20171221/ddl/k26/040/495000c

 街角のマナび場では今春の連載開始当初、四条河原の歴史を紹介したが、その地で暮らしを営み、独自の技術や文化を培っていったのは、中世では「余部(あまべ)(天部)」と呼ばれた集落に住む人たちだった。安土桃山時代の1591(天正19)年、京の都市開発を進めた豊臣秀吉は、都をぐるりと土塁で囲む御土居を構築するが、この時期、あまべは、現在の三条大橋東側(東三条)に移された。今回は、その後を追ってみた。

 中世では、あまべは現在の四条寺町を少し南に行ったところにあった。そこに住む人々は弔いに関係する仕事や皮革業を担っていたが、室町時代中期になると、造園にも活躍する。広い意味での河原に暮らす、河原者として賤視(せんし)されもしたが、他地域も含む河原者全体の中からは、足利義政のひ護を受け、銀閣寺の庭づくりに大きな役割を果たした善阿弥のような作庭家も出てくる。
 辻ミチ子・元京都文化短大教授の「『京あまべの歴史』を語る」(部落解放同盟京都府連東三条支部発行)によると、安土桃山時代には、あまべは地域として相当な経済力を持ち、織田信長、秀吉から保護される。都市改造を行った秀吉は信長の菩提(ぼだい)を弔う大雲院をあまべの地に移し、あめべの人々は移転を余儀なくされた。
 河原に寺院を? そう思う人もいるだろうから、河原者とされた人々の居住地の復習をしておく。皮革業などでは大量の水を必要としたため川の近くに住んだが、堤防がぜい弱だった当時、危険な流れの直近に住んだわけではなく、当時は広大だった河原の端の普通の土地とほぼ同等の場所に住んだようだ。
 辻氏によると、作庭は時の権力者、実力者らと哲学的な話し合いを含めて進められ、作庭を担った「山水河原者」とされる人たちは力を持つようになっていった。江戸時代に入った後も、あまべ出身ともされる下村家は、百石の知行をとる武士待遇として処遇される。
 江戸には、江戸幕府から関東を中心とした被差別民の長として認められて大きな力を持ち、明治時代に入るまで代々存続した弾左衛門(だんざえもん)がいる。これに対し、西の下村家と記す古文書もある。弾左衛門ほどではなかったというのが歴史研究の定説だが、それでも相当な有力者ではあったらしい。ただ、下村家は1708(宝永5)年に当主・文六の病死によって断絶してしまう。
 あまべでは江戸時代、太鼓やせったづくり、にかわ生産が盛んに行われた。戦国時代が終わり、よろいなどの武具に用いる皮革の需要は減少したが、文化や生活を支える皮革とその関連製品の需要は拡大した。太鼓で京都での最も大きな仕事は、二条城の大太鼓の皮の張り替えだが、あまべの仕事となっていた。他にも、歌舞伎や祭り用に多数の太鼓を製造していたようだ。せったは、草履の裏に皮革を貼って防水機能を持たせた履きもの。千利休の考案ともいい、江戸時代に普及した。にかわは、動物の骨や皮などを煮た液から作る。化学的に作られるものができるまで、接着剤として広く用いられた。いずれも、あまべをうるおす産業となった。他にも、牛馬の肝などを使った薬を製造していたという。
 また、あまべは江戸幕府のもとで「公役(こうやく)」も担っていた。二条城の清掃や刑吏(けいり)役などの御用を務め、やがて犯罪者の検挙も受けもつようになった。あまべ村の年寄と手下は、四条周辺の芝居小屋や神社の神事、寺の行事の際に出動して不審者を召し捕っていたという。公役には報酬があり、村人の収入源となっていた。
 こうして江戸時代も、あまべには経済力があり、その形跡が地域の信仰の中心地だった円光寺にみられるという。三条まちづくり協議会の安田茂樹座長は「円光寺にはお宝が多く、地域に相当な経済力があったことを示しています。地域の技で差別をはね返してきました。その歴史をまちづくりに生かしていきたい」と語った。
 現在、大正時代に設置された「三條道場」と刻む石碑が、円光寺前に立っている。辻氏によると、江戸時代の初期には寺のなかった地域が、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」の掛け軸をまつり、道場と称していた。円光寺ができた後も、そういう経緯を経てできた寺を地域の誇りとしたことから、石碑にはその文字が刻まれたと考えられるという。なかには、幕末から明治への移行期に茶道の近代化に努めた裏千家の玄々斎精中の茶室も移築されている。
 あまべの歴史を知り、街を歩きながら力強く生きた人たちの姿を心に描くと、なんだか励まされる。散歩では、四条寺町南側の大雲院跡の石碑も訪ねたらよい。その辺りが中世にあまべがあった場所だ。【戸田栄】

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