想田和弘監督、ミニシアターを救う“仮設の映画館”を始動
「日常と自由を手放さぬために、映画の灯を取り戻す」 想田和弘監督、ミニシアターを救う“仮設の映画館”を始動
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200424-00010002-asahiand-ent&p=1
4/24(金) 17:02配信
街から映画の灯が消えた。
コロナ禍の直撃と緊急事態宣言の全国への拡大で、各地の映画館が臨時休館を余儀なくされている。これほど長期間にわたって一斉に劇場が閉じられたことは戦時中にもなく、日本映画史上初の出来事とされる。乏しい公的支援と見通せぬ先行きのなか、特に窮地に立たされているのが単館系ミニシアターだ。
そんな状況を打開しようと、「仮設の映画館」という画期的な取り組みが始まろうとしている。公開予定だった新作を有料配信して料金を各映画館に振り分けるもので、いわば製作、配給、劇場、そして観客によって成り立つ「映画の経済」をオンラインで実現し、スクリーンに再び灯がともる日まで共に乗り切ろう、という試みだ。
この起死回生策を考え出したのは、『選挙』『精神』などのドキュメンタリーで知られる映画監督・想田和弘と、配給会社「東風」。
「十分な補償のない休業要請には本当に腹が立つ。でも、私たち映画人だって、座して死を待つつもりはない」
そう決意の面持ちで語る想田が3月末に米国から帰国して直面したのは、日本社会の異様な「空気」。文化支援の貧しさや無理解だけではない。感染者を罪人のように叩(たた)き、人々の不安や疑心暗鬼によって「個」の営みや自由が押しつぶされかねない風潮に、暗澹(あんたん)たる気になった。
緊急事態宣言という副作用を伴う劇薬をいとも簡単に服した日本は、コロナ禍を克服しても、後戻りできないところにまで行きかねないのではないか――。近年の日本社会の変化を「熱狂なきファシズム」というきな臭い言葉で読み解いてきた想田へのインタビューは、当然ながら、映画の話題にとどまらなかった。
(取材・文=石川智也)
観客ゼロ、閉館の瀬戸際 「なりふり構わず助け合うとき」
ニューヨークで暮らす想田とは昨夏に現地で会い、次回作について少しだけ耳にしていた。その際は「詳細はまだナイショ(笑)」だった新作『精神0』は今年2月、ベルリン国際映画祭でエキュメニカル審査員賞を受賞。日本公開(5月2日~)に合わせて帰国するということで、あらためて話を聞くのを楽しみにしていたが、本人もプロモーションどころではなくなった。
「映画製作者としての立場だけを考えるなら、思いきって公開を1年くらい延期してもらいたいというのが本音でした。観客の皆さんに安心して鑑賞いただくには、それが最良の選択だろうと。でも、このままではほとんどのミニシアターが閉館せざるを得ないというほど、切羽詰まった状況です。仮に公開を1年後に延期しても、その時には上映できる映画館が全滅した焼け野原だった、という可能性だってある」
それほどまでに、いま全国のミニシアターが置かれている状況は厳しい。
収益減は今年の2月から始まり、3月末には観客ゼロの回がでてしまう劇場や自主休館に踏み切る劇場が続出。一般社団法人コミュニティシネマセンターによるアンケート(4月10日現在、32館)によれば、観客数は3月後半では2~4割減の館が22%、4~6割減が41%、6~8割減が15%で、4月前半になると4~6割減が36%、6~8割減が41%、8割以上が23%となっていた。
ミニシアターは大資本のシネコンと比べると経営規模が小さく、入場料収入が売上のほぼすべてというところが大半だ。収入がなくても固定費はかかるため、その月の入金がなければ即座に廃業の瀬戸際に追い込まれかねない。
緊急事態宣言による休業要請に従っても都道府県からの「協力金」は一時的なうえに額に格差があり、政府が今年度補正予算に組み込む「持続化給付金」(法人で上限200万円)も、とても損失を補える額ではない。
「行政の動きの遅さや支援の乏しさは本当に腹立たしい限りです。でも、いまは文句を言っている暇すらない。私たち映画人や映画愛好者は知恵を振り絞り、なりふり構わず助け合って、なんとか生き残るすべを模索するしかありません」
配信でも“リアル劇場”と同じ興行システム 「どんどん参加を」
そこで配給会社「東風」とひざを詰め議論し思いついたのが、本来の公開日5月2日から『精神0』をネット上の“仮設の映画館”で配信するというアイデアだ。だが、単なるデジタル配信では製作者と配給会社がネットフリックスやAmazonプライムビデオに取って代わるだけで、意味がない。
この構想のミソは、休館していても映画館が収入の道を確保できる点にある。
「東風」のサイト「仮設の映画館」には『精神0』を上映する予定だった全国30館以上のミニシアターが掲載されている。利用者はその中から最寄りの映画館や応援したい映画館を選び、ストリーミングで視聴する。
鑑賞料金は劇場の一般的な当日料金と同じ1800円。この売上を劇場と配給会社で折半し、さらに配給と製作者(想田)で分配する。通常の興行収入と同様の仕組みだ。
「これは休館が長期化すればするほど、必要なやり方。お金の流れとしては通常の劇場公開モデルと同じなので、“観客”の支持さえあれば持続可能です」
「ただし、1作品だけでは続かない。大事なことは『精神0』でこの試みがうまくいって、お金がきちんとまわることを示し、他の配給会社や製作者や劇場がたくさん乗ってきてくれることです。僕らはこの仕組みを独占したいとはまったく思っていない。むしろ多くの人に共有してもらい、できれば改良もしてもらいたい。どんどん広げ、みんなで生き残りましょう。そういう話なんです」
15日には、映画監督の是枝裕和、井上淳一や俳優の安藤サクラ、井浦新ら30人以上(もちろん想田も)が呼びかけ人となったプロジェクト「#SAVE The CINEMA ミニシアターを救え!」が、休業補償などを求める要望書と約6万7千筆の署名を国に提出している。また、若手監督らが13日に立ち上げたクラウドファンディング「ミニシアター・エイド基金」は3日目で目標1億円を突破した。
ただ、コロナ禍が1年あるいは2年続けば、寄付や一時的な支援だけで危機を脱せられるかは心もとない。長期化を見据えるなら、壊れかけた「映画の経済」を回復しようという“仮設の映画館”の試みはきわめて有効で、可能性がある。いまは「あれかこれか」ではなく、「あれもこれも」手を打つべき時だろう。
配信は5月2日午前10時から5月22日午後9時まで。「東風」は「本物の映画館と同じく、ヒットしたら延長されるかも」としている。
乏しい公的支援、世論も追随 「文化芸術は二の次か?」
それにしても、今回あらためて顕わになったのは、文化芸術に向けるこの国のまなざしだ。
「隣の芝生」がこの上なくまぶしい青さに映るドイツは、個人や自営の小規模起業家(半分近くが文化セクターで働いている)への支援で500億ユーロの予算を組んだ。グリュッタース文化相は「アーティストは必要不可欠であるだけでなく、生命維持に必要なのだ。特にいまは」と述べ、文化施設を維持し芸術文化によって生計を立てる人々の存在を確保することは政府の最優先事項であると明言した。
「一番の問題は、私たち主権者に『文化芸術は私たちの生活にとって必要不可欠であり、公のお金で支えなければならない』というコンセンサスが弱いことです。教育や医療に公金を投じることに誰も疑問は持たないけれど、文化は二の次でいいと、多くの人が考えてしまっている」
「だから、相変わらず文化予算は貧弱で、文化助成について根源的な考え違いをしているとしか思えない政治家の発言が許され、支持を得てしまうという現実があります」
昨年の「あいちトリエンナーレ」問題では、「カネを出すなら口も出す」と言わんばかりの行政トップの発言に批判が殺到するどころか、「公的施設を使い公金を受け取るなら、国民の感情を損ねる表現をすべきではない」と賛同する声が少なからず挙がった。そこにあるのは、文化助成があたかも“国からの施し”であるかのような発想だ。
仮に一部の人には不快であっても多種多様な表現が流通し、それに触れる機会があることが民主社会成立の条件である、だからその「場」を担保し表現の送り手と受け手を媒介する美術館や映画館は、経営主体にかかわらず“パブリック”な存在で、私たちに不可欠なものだ――そうしたあるべきコンセンサスが希薄なのだとしたら、想田の言うとおり、問題は結局のところ政治ではなく私たちの側にあるのだろう。
「でも、それはもしかしたら、我々芸術文化に携わる者たちにもそうした認識が薄く、政治や世論への訴えかけをずっとサボってきたからではないかという反省もあります。そのツケをいま一気に払わされているのかもしれない。いずれにせよ、今回のコロナ危機で、ふだんは見えにくかった日本社会の矛盾や病理がさまざまな場面で噴き出していると思います」
「異様」な感染者差別の光景「ウイルスより人間が怖い」
その「病理」のひとつが、感染者に対する差別的言動だろう。感染を本人の落ち度や責任感の欠如の表れであるかのように扱う風潮が広がり、医療従事者までもが心ない仕打ちを受ける例も相次いでいる。3月25日に帰国した想田には、異様な母国の景色だった。
「日本に来る前にNYでロックダウンを1週間ほど経験しましたが、少なくともアメリカではそういう報道は見なかったし、僕らの周囲でもそんな事例は聞いていません。日本に来てみると、『バイオテロ』という言葉が飛び交ったり、感染者が座っていた新幹線の座席まで報道されていたりして、驚きました。ウイルスよりも人間の方が怖い、まさにそう思わせる状況です」
「我々帰国者を見る目もそうです。新型コロナウイルスはもはやルートが分からない感染者が多発していますし、きちんと対策を取っていても感染してしまうことは起こり得る。症状や自覚のない感染者だってたくさんいるはずです。つまり、誰もが被害者ではなく感染させる側になり得る」
「自分がすでに感染者かもしれないという可能性に思い至れば、自分と感染者との間に線を引き相手を異物のように排除するなんてことはできないはずです。感染して非難されることを恐れて医者に診てもらうのをためらったり、症状や行動履歴を隠したりといったことが、実際に起きている。でも、これではさらに感染を広げるだけです」
「公益」の下で犠牲になるもの 「後戻りできなくなる可能性も」
歴史をひもとけば、感染症は差別や嫌がらせと分かちがたく結びついてきた。そして、「非常事態」という名の下に結束や秩序順守が前面に押し出され、本来は例外のはずの私権制限が原則化し、異論を封じ込める空気が醸成される。これは想田が「9・11」後の米国で目の当たりにした状況と酷似している。
「いまはものすごく相互不信を引き起こしがちな状況です。誰もが孤独に陥り、潜在的なリスク要因に過敏になっている。人々が分断されている一方で、不安に駆られ急に集団化して個人を叩く。個人の自由や基本的人権に対する最大の危機だと思う。『公益』と個人の自由がこれほど対立する状況は、日本では過去70年以上なかったことです」
トランプ米大統領はウイルスとの戦いを「戦争」になぞらえ、戦時指導者のイメージを誇示している。「有事なのだから筋論を言っている場合ではない」という風潮はいまや先進国も含め世界に広がっている。だが、想田は特に日本でこうした現象がエスカレートしかねないと危惧している。
「日本にはそもそも、個人を犠牲にしても全体を優先する思想や態度が会社や学校、家庭にまで浸透しています。民主主義のシステムを少しずつ、確実に切り崩してきた権威主義的な安倍政権が支持され続けていることと無縁ではない。僕は『熱狂なきファシズム』と名付けていますが、それは主権者の無関心と黙認のなか、低温やけどのようにじわじわと進む全体主義のことです」
「こういう社会は、自民党が改憲案で盛り込んだ『公益』『公の秩序』という超越的価値に飛びつきやすい。『いまは非常時なんだ』『人が死んでいるんだ』という掛け声とともに、一気に『人権が制約されるのも仕方ない』という方向に行きそうで怖い」
大仰な言い方かもしれないが、1940年代の日本も、ある日突然爆弾が降ってきたわけではない。物資が手に入らなくなり、すぐに戻ると思っていた人が帰らず、社会の雰囲気が変わり、段々と状況が悪くなっていった。日常と非日常との境目はおそらく、一目でそれと分かるようには訪れないものだ。
「制限や制約のある生活に慣れ、大事なものを手放したことに気づかぬまま、ちょっとずつ日常の風景が変わっていく。すべてが終わった時にはもう後戻りできない遠いところに来てしまっていた――そんなことにならないか、非常に危惧しています」
「映画を観る」とは時間と空間の共有 「人は『感応』を求める生き物」
ならば、こうした社会の荒廃を食い止め、人々の豊かで多様な営みを支えるのが、まさに文化芸術の役割だろう。命か自由か、ではない。どちらも不可欠で、取り換えは利かない。
「仮設の映画館」というネーミングについて「東風」の担当者、渡辺祐一はこう解説する。
「災害などの非常時には、生活に必要なものは必ず仮設でつくられます。例えば、仮設のトイレ、仮設のシャワー、仮設の住居……。同じように、人々に喜びや笑いや感動を届ける映画というものは、なにか非常事態があった時でも仮設で設置されるくらい必要とされるものであってほしい。そういう思いも込めています」
想田は、コロナ禍の収束後には本物の劇場で『精神0』を公開したいと考えている。“仮設の映画館”で鑑賞した人も劇場に足を運び、あらためて「映画館っていいもんだなあ」と実感してもらいたいという。映画と映画館は不可分と信じるからだ。
「電車やバスや車で劇場まで出掛けて、赤の他人同士がひしめき合ってひとつのスクリーンに見入る。場内で誰かがクスッと笑い、ひとりで観ていたらまったく気づけなかったユーモアやギャグに一緒に反応する。そして帰りがてら誰かと感想を語り合い、家に帰って感動を反芻(はんすう)しながらブログに書いたりツイッターでつぶやいたりする。そうした行為すべてが、映画を映画たらしめているんです」
「いくらテクノロジーが発達しても、じかに会ったり集まったりすることへの我々の希求が消えることはない。『感応』し合うことは人間の根源的な欲求です。今回のコロナ危機によって、あらためて皆そのことに気づいたんじゃないでしょうか」
「またワイワイがやがやと映画を観る日が必ず戻ってくる。そのためには、映画館には絶対に生き残ってもらわないと!」
一癖も二癖もある支配人やこだわりの強いスタッフによって運営されるミニシアターは、街の文化を映す鏡のような存在だ。独自すぎる作品セレクション、ロビーに貼られた往年の名画のチラシやポスター、手書きの紹介記事、ほこりっぽい堅椅子、もぎりのオジサン、売店のあんパン……。それらすべてが、私にとっても特別な映画の世界への誘(いざな)いだった。
暗闇の中で銀幕に没入し、見知らぬ人とうたかたの時間を共有していると、自他の境界線が溶け出し、誰かとつながっているかのような錯覚にとらわれる。
映画とは、つくづく不思議なメディアだ。
最近にわかに増刷を重ねているというアルベール・カミュ著『ペスト』の終章に、こんなシーンがある。猖獗(しょうけつ)きわめる疫病に立ち向かい、極限状態でも人間の尊厳を保ち続けた主人公のひとりは、「どういうことをいうんです、平常の生活に帰るっていうのは?」と問われ、笑って答える。
「新しいフィルムが来ることですよ、映画館に」
(敬称略)
■プロフィール
〈そうだ かずひろ〉 1970年、栃木県足利市生まれ。93年からニューヨーク在住。NHKなどのテレビ用ドキュメンタリー番組を手がけた後、ナレーションやBGMを使わない「観察映画」シリーズの製作を開始。『選挙』(2007年)で米ピーボディ賞、『精神』(08年)で釜山国際映画祭最優秀ドキュメンタリー賞、『Peace』(11年)で香港国際映画祭最優秀ドキュメンタリー賞など受賞歴多数。主な著書に『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』(講談社現代新書)、『演劇 vs.映画』(岩波書店)、『日本人は民主主義を捨てたがっているのか?』(岩波ブックレット)、『熱狂なきファシズム』(河出書房新社)など。
■作品情報
『精神0』
監督・製作・撮影・編集:想田和弘 製作:柏木規与子
製作会社:Laboratory X, Inc 配給:東風
2020年/日本・アメリカ/128分/カラー・モノクロ/DCP/英題:Zero
5月2日(土)より「仮設の映画館」ほか全国順次公開
公式HP:www.seishin0.com
■著者プロフィール
石川智也
1998年、朝日新聞社入社。岐阜総局などを経て2005年から社会部でメディアや教育、原発など担当した後、2018年から特別報道部記者、2020年4月から朝日新聞デジタル&副編集長。慶応義塾大学SFC研究所上席所員を経て明治大学感染症情報分析センターIDIA客員研究員。著書に『それでも日本人は原発を選んだ』(朝日新聞出版、共著)等。オピニオンサイト「論座」等にも論考や記事を多数執筆している。
朝日新聞社
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