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「差別の問題は現実から学ぶ」?

「カウンセリングっぽいもの」が増えている
(10-11-08)

http://www.futoko.org/special/special-33/page1108-969.html

 最近、山陰地方で高校の職員をしている男性とお話しする機会があったが、そのとき、ひとつの質問を受けた。「人権・同和担当教員」という肩書きで仕事をしているその方は、被差別部落出身の生徒たちの進路保障をふくめて、部落差別の問題にとりくんでいる。おなじ立場にある教員たちとも交流しながら仕事をしてきた。ところが最近、この領域にカウンセリングめいた学習や実践がひろがってきて、どう考えてよいのかとまどっている。違和感もあるが捨てがたい気もする。この問題をどう考えるか、という質問だった。
 そのカウンセリングめいたものというのは、たとえばセルフ・エスティーム、エンパワーメント、エンカウンター、セルフヘルプグループといった片仮名用語に代表されるという。これらの片仮名はそれぞれ自己尊重、力をつける、内面的に出会う、自助グループといった意味であり、個人の力を重視するアメリカのカウンセリング文化が日本でひろがるなかで普及してきた言葉だ。日本語にしてしまうとニュアンスが変わってしまうので、英語のままで使われている。そういうわけで、片仮名用語なのだ。
 彼の意見はこうである。それらの言葉が入ってくるまでは、「差別の問題は現実から学ぶ」「波風たてることをおそれない」というぐあいに、現実と向き合い人とつながって闘っていくという考え方が中心だった。つまり問題はリアルな関係のなかで解いていくものだという姿勢だ。いまも基本的にはそう考えている。個人の内面に関心を向けかえてしまうようなカウンセリングめいた考え方に「なにかおかしい」と感じることはたしかだ。しかしこれらの方法が生徒の安定のために「有効だ」と感じることも、またたしかだ、と。
 カウンセリングは専門家だけのものでは、いまやない。日常生活のなかにも、さまざまなかたちでこの思想と技法は広がっている。女性や障害者、ゲイの人びとの解放運動、同じ悩みを持つ人びとの自助グループ活動、災害や事故に際しておこなわれる心のケア活動などにも、カウンセリング的なアプローチが取り入れられている。親子関係にまで。
 カウンセリング文化の広がりがある。だがそこに、さきの職員の方が抱く「スッキリして有効だが、なにかおかしい」という思想も聞かれる。その疑問はどこから来るのだろうか。
 それは「ことなかれ主義」から来ると、わたしは考える。カウンセリング的なアプローチの特徴は、「関係の現実から個人の内面へ」「波風をたてることから平常な心境へ」という方向性を持っている。「ゴタゴタからスッキリへ」ということもできる。穏やかに個人で解決する力をつけるという方向性だから、周囲から歓迎され本人もラクになれる。そこから「有効だ」との評価が生まれるのだろう。
 しかしその「解決」は実は、社会の矛盾が温存されたなかでの適応や上昇指向となりやすい。個人の力に関心が向くので社会への関心がうすれ、いつのまにか「解放」という言葉から遠くなる。女性解放運動のなかでエンパワーメントという考え方が広まったが、それは「差別と闘う力をつける」ではなく「男性の持つ権力への仲間入りをする」という意味を結果的に持ったという指摘もある。「カウンセリングっぽいもの」は心地よさを保障するけれど、内側に閉じていきやすい。逆に、個人やグループが社会(外側)に開いていくこととカウンセリングっぽくなくなっていくことは、同じ現象のようにわたしには思われる。
 カウンセリングっぽいものといえば、昨年の4月に全国の小・中学生全員に文部科学省から配られた『心のノート』が思い浮かぶ。国家主義にみちた手ごわい中身を、やわらかな色彩と心理的手法で覆っている。正体を見えにくくする屈折した「やさしさ」がさまざまに広がるなかで、まっすぐにものごとを見、ゴタゴタに耐え、正直に語り合いつながる力を大切にしたい。
(日本社会臨床学会・運営委員)

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