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差別糾弾と仇討ち思想

仇討ち禁止令(復讐禁止令)

仇討ち禁止の最初の法律が1873(明治6)年2月

http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/adauti.htm

仇(あだ)討ち(敵討ち・復讐)とは、主君・親兄弟などを殺した者を討ち取って恨みを晴らすことで、報復行動の極み(きわみ=物事のきわまるところ)ともいえるが、江戸時代、武士階級で慣習として公認されていた。

人を殺しても番所に届け「敵討ち」と認められれば罪に問われなかったばかりか、それは美化され、古典芸能の能や歌舞伎で取り上げられ、大衆の人気を博した。また、現代文学や演劇でもテーマになっている。

その典型が、映画やテレビで何回もヒットし、現在でも取り上げられている1703年江戸(東京)の「赤穂浪士の討ち入り」(『忠臣蔵』)である。

その他日本史上有名な仇討ちが、歌舞伎・浄瑠璃の題材となった1193(建久4)年5月富士山麓の「曽我兄弟の仇討ち」(兄は十郎祐成【すけなり】、弟は五郎時致【ときむね】。1176【安元2】年、父祐泰【すけつね】が伊豆の奥狩場で所領争いから工藤祐経【くどうすけつね】の刺客に殺されたのち、仇を生きがいに成長、1193年に頼朝が催した富士野の巻狩りに、同行していた祐経の宿所をつきとめ、夜半風雨を冒して侵入し、祐経を殺して父の仇を討った。しかし兄祐成は宿衛の新田忠常【にったただつね】に討たれ、翌日弟時致も捕らえられ殺された。なお、仇討ちの背景には、北条時政【ときまさ】がいて、頼朝を暗殺させようとしたとの説もある)、宇喜田秀家の家臣林重次郎・源三郎兄弟が父のかたき当麻三郎右衛門を追い求め、重次郎は返り討ちとなったが、源三郎が忠僕(ちゅうぼく=忠実な下男)鵤幸右衛門(いかるがこうえもん)とともに討ち果たした1609(慶長14)年大坂・天下茶屋(てんがちゃや)で起こった「天下茶屋の仇討ち」であり、江戸時代に届け出で認められた仇討ちは100件を越える。

仇討ち禁止の最初の法律が1873(明治6)年2月に司法卿(しほう-きょう=1885【明治18】年以前の太政官制における司法省の長官)・江藤新平が出した復讐禁止令(仇討ち禁止令。太政官布告第37号)である。

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