差別 差別意識 あらためて考える
第9分科会(第27回全部研、97年11月7日、山口市内)全解連等主催
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この第九分科会の運営を務めます丹波です。よろしくお願いします。
この分科会は二百名ほど入る会場なのですが、超満員になってしましました。これはどういうことなのかを考えてみたいと思います。今日は差別問題をどう考えるかという点でこの分科会を開いたのですが、差別とはどういうことなのかという感心が非常に強いということでこの会場が超満員になったのだろうかと思います、これは社会の反映ではないでしょうか。
差別問題を考える場合に、いろんなアプローチの仕方があります。例えば国際条約では女性差別撤廃条約あるいは人種差別撤廃条約などには差別の問題についての法文的な規定があります。ただ、それだけで満足できるかについては難しい問題があります。
差別を考える場合に、差別という問題は歴史的に考えた場合にはどういうことになるのか。差別と歴史性にはどんな関係があるのか。つまり封建社会では差別という認識、行為があるのかどうか。近代社会に入り人権が確立されて国民の間でその認識を認め合うという段階で差別な成り立つのかどうかという点もあるかと思います。
二番目には、同和対策審議会答申が出され、その時に実態的差別と心理的差別という規定がなされました。最近ではマスコミも差別意識という言葉を盛んに乱用しています。この意識と行為の問題をどう考えるのか。心の中、内心の問題を差別といえるのかどうか。同対審答申では心理的差別があると言っていますが、心理的差別が本当に正しいのかどうかが問われていきます。差別の問題イコール心の問題と短絡的に捉えていいのかどうか。この点で行為と意識の関係はどうなのか。行為と関わっては就職、結婚差別等の問題と表現行為との関わりはどうなのか。現実に物理的な実害を与える問題とそうでない問題、表現行為は相手がありますから受け取り方によって違いがあります。言われた状況によっても変わってきます。あるいは違った意味で言ったのか、違った意味で受け取る場合もあり、表現行為では差別問題をどう考えるのかということもあります。最近では自治体で共生という言葉が遣われますが、共生と差別も問題をどう考えるのかもあります。このように様々な問題があり、今日は三人の先生方にこのテーマに基づいてそれぞれの考え方を述べていただいて差別問題について考えていきたいと思います。
峰岸氏報告
私は部落差別、身分差別について具体的に話してみたいと思います。
私は差別を差別一般として取り上げることにどれほどの意味を持っているのかを疑問視しています。従って差別一般について規定することに禁欲的です。それは反差別統一戦線、反差別統一運動といったものが成り立つのかという疑問にもつながっています。私は差別について次のように捉えるべきだと仮説的に考えています。それは個別性、特殊性、普遍性との連関、統一において捉えるというものです。個別性とは普通に言われている差別の様々な差別です。民族差別、人種差別、性差別、経済差別、職業差別、身体差別、障害者差別、年齢差別というような、まさに個々の差別問題です。これについて第一に押さえておかなければならないのは、個々の差別はそれぞれ性質が異なっており、その性質の条件も異なっているということです。例えば民族差別は民族間の問題としてあり、帝国主義的な支配を条件としています。といっても、最近はユーゴスラビアの例をとるように単純に帝国主義的支配の問題とだけ一元化し得ない複雑な問題を呈しています。他方で職業差別についていえば一般に同一民族、国家内の問題であって、職業に対する価値観、貴賤感を条件としているように性質も条件も異なっています。従って差別の解決は差別一般を解決するのではなく、個々の差別問題の解決に取り組んでいくという方向を取るべきだと考えます。部落問題ならば部落問題をどう解決していくのか。性差別をどう解決していくのかということです。例えば日本国内の民族差別の問題だったアイヌ問題については一昨年の国会でアイヌ文化の振興、並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及および啓発に関する法律というものが成立しました。あるいは性差別、女性差別の問題においては女性の社会参画についての法律という7ようなものが答申で出たと思います。このように性差別の問題ならば性差別の問題として解決していくということが必要だと思います。差別一般を解決するのではなく、個々の差別について解決していくことが正しい取り組みだと思います。従って現在審議されている人権擁護推進法、差別一般、人権一般で法を創ることには賛成できません。人権については日本国憲法でちゃんと規定されていると考えています。
差別の個別性の問題について第二に押さえておかなければならないのは、個々の差別は重なり合う場合もあれば、重なり合わない場合もあるということでうs。例えば人種差別は経済差別、職業差別と重なる場合が多くあります。これはアメリカ黒人、ヒスパニッシュの例を挙げれば多くが貧困におかれ、職業の上でも差別されるということが多い。あるいは性差別と職業差別が重なる場合も多くあります。女性の場合は特定の職業に就けない場合があります。企業、職場では管理職につけないというような差別として重なり合う。しかしながら、人種差別と障害者差別、あるいは性差別と障害者差別は重なりません。もちろん個別的には女性として差別されている上に障害者であることによって障害者差別をうけている場合もありますが、一般的には重ならないといっていいと思います。
第三に一個人に個々の差別が複合されている場合があります。そして差別をうけながら、差別をしているという複合性、錯綜している場合があります。ある人が民族差別を受けていながら、同じ民族内で他人を経済的に差別している。あるいは職業差別を受けながら女性差別をしている。社会で職業上の差別を受けていながら、家の中では夫としてふんぞり返っている。以上、総合して言えば資本家階級と労働者階級というような二交対立区分を差別問題に適用することはできないということです。社会総体においてある人々が差別者階層であり、ある人々が被差別階層であるというような単純な区分けはできない。複雑に錯綜しているということであり、そのことを踏まえても差別は個々の差別問題として解決していかなければならないだろうと考えます。
次に特殊性ですが、それは歴史性を指しています。個々の差別は固定したものではなく、歴史的に変化していくものとして実在している。例えば女性差別も、古代、中世、近世、近代、現代によって差別の有り様、強弱の度合いは異なってきます。しかしこれまでの歴史学の中では階級一元史観というものにわざわいされてこのような視角からの研究は途上であるといっていいかと思います。階級一元史観とは差別はすべて根元が階級支配にあり、階級支配が解決されれば差別はすべて解決されるという一時期流行った考え方です。資本主義の階級差別がなくなれば女性も解放されるという考え方で、あるラジカルなフェミニストはなんと脳天気なことを言っているのかと表現しました。最近の歴史学においてもこの考え方は後退しています。個々の差別の問題に即して考えていくという固有性を持って、これが古代から現代までどのように変わったか、女性史は研究が進んでいますが、一般には大変に中身の掴みにくい内容になっています。例えば江戸時代、武士の家でも夫婦が協力しあって子育てをしているという記録が残っています。このように様々な側面があります。
次に普遍性ですが、これは差別の一般性のことです。まず差別とは現象として見下す、排除する、無視する、収奪するという形で現れます。そして、それが近代社会の価値理念に即して言うならば、自由に至る権利、結婚、職業選択、言論など様々な自由権があるわけですが、その自由も最初から整って実現していたわけではなく、歴史的に勝ち取ってきたものです。この自由に至る権利が平等に認められていないことを差別といっていいと考えます。また視点を変え、人はなぜ差別をするのかという点から言えば、自己の存在価値を認める、あるいは認められる、それを優位に維持するために他社を差別するのだと考えられます。そして差別が安定的に維持されるためには差別者の価値観を非差別者が内面化してしまうことです。例えば性差別では男女の役割分担ということで男性と女性とは違うのだということで、女性もそれを認めてしまう。夫は外で働き、女性は家を守るという形で差別を内面化してしまっている。この場合は差別は安定期的に維持されるということになります。非差別者がこれを超えて差別を差別として感性的、理性的に自覚するに至ればその安定性は失われていくことになります。
時間がないので心理的差別と実態的差別、あるいは差別意識の問題にはいります。
実態的差別と心理的差別と区別したのは同対審答申です。この心理的差別に関連してかなり問題のある発言がされています。梅田さんのレジメのP102、
心理的差別とは何か。同対審答申は、心理的差別とは人々の意識や観念の裡に潜在する差別であると説明している。これはまったく同対審答申を読み誤っています。心理的差別について同対審答申は杉之原先生のレジメP193にあるように同対審答申では心理的差別とは単に人々の観念の中に内在しているものだと言っているのではありません。他人を侮蔑するなど明らかに行為を伴っているものを心理的差別といっています。この点から言えば、心理的差別はいろいろと実態として現れます。では実態的差別とどこが違うのか。これは紛らわしいので格差と障壁という二つの範疇に分けました。もう一つに差別は実態であり、現実に権利を侵害した場合に差別というのだということです。しかし、差別は実態であるなら、差別意識はどうなるのかといえば、差別意識も重視しなければならないと考えます。例えば結婚差別という行為をとれば、明らかに差別意識を前提にしています。心の内に潜在しており、部落民との結婚となった場合に結婚拒否という差別として顕在化するのであり、部落民と結婚するという機会がなければ顕在化することはない。差別意識として潜在しているにとどまっているということになります。このように差別意識は心の内に潜在し、また顕在化することがあります。現状では地対協がいうように差別意識が根深く存在しているという評価は間違っています。そして残されている差別意識については国家主導型ではなく、地域社会における交流、対話、学習によって解消すべきであると考えています。これはより高次な運動であり、要求し、獲得していくというものではありません。
時間がきましたので終わりにしたいと思います。
古川氏報告
・・・・・天皇、華族、平民という身分制を作ったことがあります。明治四年の解放令をどう理解するかのかは難しい問題がありますが、基本的には資本主義を発展させる。市民社会では経済的な自由は拡大しながら、しかし政治的には特殊な身分支配を貫徹させようというのが明治の絶対主義の特色ではないかと思いますが、その中で解放令の性格も決まってくる。封建制身分は様々な形で解体されたわけですが、その中で封建的な特権が排除されつつ、同時に資本主義の搾取に現れた。この点で被差別部落が残った。ただ残ったわけではなく、明治国家はかなりあくどいことをやりました。例えば共同墓地の作り方です。どこに墓地を作るのか。学校、病院、刑務所、塵芥処理場、賭場等々です。これを行政措置によってどこに作るのかが大きな問題として明治国家の犯罪性としてあると思います。それと意識、意識解除令、これは非常に重要な条例で、明治国家は文明なんだと。だから衛生観念が大事なんだということで内務省を中心に人民を善導したわけです。その中で悪習悪癖、日本の近代市民社会の中で積極的になくしていこうとしたのですが、むしろ助長したという点を留意すべきだろうと思います。もちろん有名な判例では結婚裁判で建前では臣民の平等を取っていましたが、非公式には被差別部落を温存する行政上の措置としても取られたのではないかということです。これに対する反対はありました。臣民融和や戦前の運動がありました。戦後、日本国憲法になり。生まれによる差別は基本的に許されない。私人間であろうと国家がやろうと不法行為を形成するという原則が確立しました。法制的には部落差別は認められません。不合理で不当な差別だということははっきりしていますい。ただ、それがどの程度日本の市民社会の中に定着したのかということです。明治以降、日本の部落差別は人為的に作られた垣根です。この垣根の除去が日本国憲法の下でどのように行われたのかということです。御存知の通り、同和対策事業、心理的な格差の是正の二つがあるわけです。資本主義の中で、まずは基本的人権の享有を妨げている、とりわけ生存権の実現ということで、憲法学からいえば同和対策事業が位置づけられる。基本的に生存権を実現していくということで同対事業が行われ、アファーマティブアクション、積極的な差別是正措置の特殊な日本の特殊な現れ方と捉えています。脱線しますが、アメリカのアファーマティブアクションにはいろいろな揺れがあり、現在インコールプロテクション、平等の保護の条項がありますが、これは公立の学校では白人と黒人を人口比に応じて構成すべきだとして、これを共生ということです。そして職業選択の自由、居住移転の自由で隔離やスラニズムが発生して学校は事実上分離してします。白人だけ、黒人だけの学校を作るのはいけないということでブラウン判決が出ましたが、事実上市民の自由な判断を通じて差別が残っている。それをなくすためにバス通学が行われます。比率を等しくするために遠距離通学が行われます。他には、とりわけ国家が関与する仕事、公務員だけでなく、国家と契約した会社は人口比率に応じてマイノリティーの人々を採用しなくてはならないという割当制のアファーマティブアクションが行われ、差別の実質的な是正を図るという考え方が出ています。ただそれはかえって屈辱である。福祉に対してもそれは屈辱であるという考え方も出てきています。黒人の中から起こっているのが特徴です。アメリカは非常に差別に対して積極的に闘っている国です。この実態的な差別をどう解決していくかということでは我が国では同対事業で生存権を実現するということで基本的に解決できたと私は思っています。あとに残るのは心の問題です。とりわけ人権とは近代社会の人権の実現が難しい問題は差別のない社会を作るだけではダメだということです。自由が維持されなければいけないわけです。日本国憲法の一般の民主主義とは自由と同時に民主主義を実現していくということです。憲法学で人権の難問とは個人の尊厳に立って一人一人が大事にされなければならないと同時に自由な秩序を維持しなければならないという矛盾です。自由に自己の生存形式を獲得していくと同時に個人の尊厳を実現していくという難問に取り組んでいかなければいけないということです。例としては差別表現の規制の問題です。当然個人の尊厳ということでは個人やある社会集団を侮辱する発言があります。人間の心は判らないというのが前提です。権力が心の推定をしてはいけない。絶対に許してはいけないわけです。憲法十九条の内心の自由とはなにより踏み絵を禁止なのです。何を思っても自由ですが、それは表現となって出た場合、法律はその出た外形的行為だけを規制する。行為のレベルで考える。従って差別的な表現の場合は個人に対する表現は刑罰にあります。名誉毀損などです。民法でも損害賠償ができるわけです。ところが問題なのは差別表現規制で問題になっているのは個人に対する侮辱や差別表現ではなく、社会集団に対して一般に侮辱した場合どうかということが差別表現規制の問題です。これを認める人もいます。例えば人種差別撤廃条約の四条の規定は不明確です。法律家から見ればラフな法律なのです。国連関係はいろんな国々が集まりますからどうしても幅の広い条文が出来てしまうのですが、そこでは社会集団の優越性、劣等性を言ったら差別表現になってしまいます。例えば日本人は真面目に働くという場合、日本人の優越性を誇ったことになるのか。黒人が足が速い。オリンピックで黒人が占領してしまうのではないかと言ったら、これは差別表現なのかと。黒人の優越性を言いながら黒人はスポーツしか能力がないんだと言外に言っていると解釈も出来るわけです。こういった細かいところまで法律はタッチするのか。いろんな発言があるでしょうけれども、社会集団なり特定のグループに対する侮辱があり、それを刑罰で規制してもいいという考え方が一部にありますが、これは間違っていると思います。それは心の中で思うことは自由であり、表現するのも自由です。個人に対する悪口は法律で罰する。それ以外の様々な言論の自由、これは思想表現の自由市場と言っていますが、差別表現を規制する方法はどんな形がいいのか。これは国民を信用するしかないと思っています。根本的な対論言論でやる。侮辱したら侮辱しかえす。市民の内部で解決すべきで、それを特定の言葉はいけないということで、支配的、刑罰で強制すると大変怖い問題が起こってきます。例えばマスコミでは言葉狩りが行われています。解同の差別表現ではマスコミのトップを狙っていて、マスコミは非常に敏感になっています。解同は言葉狩りをやることでどんなメリットがあるのか。内心をコントロールしたい。確かに遣ってはいけない言葉は遣ってはいけない。しかしそれを間違って遣うこともあります。そして差別用語を遣わなくても差別はできます。何が問題かというと意図が問題なのです。この意図は誰が判定するんだと差別用語を遣わなくても文脈上差別する意図があったら罰することができる。これは誰がどのような形で判定して我々の内心に入ってくるのか。従って差別撤廃条例や人権条例がありますが、基本的には市民の意見のぶつけ合いではなく、公権力による規制、これは日本国民の内心や表現に与える非常に悪い影響を与えたと思っています。これは大阪府立大学でセクハラがありました。学生がエッチな看板を作りました。それに対して二人の女子学生がセクハラ、不快表現だということで学生部に訴えました。看板を作った学制は文化団体連盟で議論をしました。大学のキャンパスの中でこの看板がいいか悪いかを。品がない。私も品のないものだと思いました。しかし、それを学生部はそういう発言があったからと看板を撤去して、部室を閉鎖して、クラブ活動をやらせないようにしました。確かに不快な看板ですけれども、不快な表現を、例えば大学のキャンパス内で不快だからといって学生部が押さえることができるのか。大学における思想の自由の表現というのは、学生は言いたいことを言って、批判があり、その中でいい表現秩序を作っていくことが大阪府立大学当局に求められたということです。ところがそれに対して不快だということでそれを押さえる。学生が怒ったわけです。いけないなら文句を言ってくればいいと。議論を投げかけたつもりなんです。それについて鑑定意見を書いて、大学というのは一般社会と同じように表現の自由がある。もちろん猥褻表現ではありません。その中で大学における自由な表現秩序を作っていく。その形の努力を大学当局は作っていくべきだったがそれをしなかった。むしろ抑圧した。その点で最近の差別表現の問題については思想表現の自由秩序をどう維持していくのかという観点から、差別表現の規制の問題を考えるべきだというふうに考えます。そして差別、男女差別は非常に難しい問題ですが、今の男女雇用機会均等法を含めて、男と女が平等になるという角度から問題を考えてはいけないのです。ともするとその面だけで同じになったからいいのだとなればその結果として社会全体、制度やシステムの中でどうなっていくのかということを考えていかなければならないだろうと思います。当然、女性の能力の解放という点では大事です。女性の能力を解放し、社会に参画していくのかは大事なことですが、それと同時に母性というものがあります。女性の保護と母性の保護です。女性が参画してくる場合に当然母性、子どもを出産する性であるという点から保護は当然必要だと思います。深夜労働についても家庭の維持についてどう考えるのか。そういう点から女性の社会参画を考えていく。こういう全体的、科学的な考え方から非常に大事であり、ただ男女差別という角度からだけ同じになればいいという議論はいけないのではないかと思っています。
差別とは日本国憲法が定めた基本的人権の享有を妨げられる事態はなんなのかということを個別具体的になくしていくことであり、それと同時に日本における一般的な民主主義の実現の課題だと思っています。そして人権はそれにとどまらずもう少し射程の長い、人権はもう少し光り輝くようにならねばならないと思っていますが、人権の中でも所有権は特権を持つ権利になってしまいました。社会の中で特権を持つようになった人権には制限をしていかなければならない。これは人民の民主主義だろうと思います。一般民主主義における逆流、様々な自由な秩序を侵害する差別表現を含めてですが、人民の民主主義を進めるにあたって邪魔になっているのは現在の解同を含めて人権擁護推進審委員会で言われている議論の仕方、どんな考え方を出してくるのか、審議録を読んでみると非常につまらない。人権の根本問題は国家や社会権力などの強い権力に対して自分の自由を守るという何々からの自由が人権のもとだったわけです。それが国家が人権の守り手のように国民の間に悪習や悪癖が残っているとして啓発するんだという形で来ていますが、この議論の枠組み自体が憲法学の人権論の立場から言うとまったくおかしな人権の語られ方です。その点で公権力がそれを利用した形で人権教育、人権啓発がされようとすれば、これは間違った人権教育がなされます。これは非常に怖いことであり、それに対して本当の人権、地域の中でどう考えていくのか。差別論を超えた人権、それを地域で確認し、作っていく作業、この本当の人権の考え方を積極的に出していくこと、国が人権擁護に基づいてやることも間違っていますし、解同のやり方も間違っています。それを批判しながら、日本国憲法を実現するために地域でどういう人権があるのかを考えていくこと、これが非常に大事だろうと思います。以上です。
杉之原氏報告
今、お二人から報告がありましたが、それぞれに疑問を持っています。峰岸さんとは三年ほど前から人権啓発が大きくクローズアップされる中で、これは問題だということで「啓発批判と意識変革」という論文を出し、これに対して峰岸さんから批判が出ました。それに対して峰岸さんの批判に応える形で反論を出しました。今日のご報告についてもいくつかについて疑問があります。そして古川さんのご報告についても一点の疑問を持っています。それは差別という概念は近代的な概念であるという規定についてです。基本的人権についての認識は近代以降の問題ですが、そういった認識がなければ人権はないのかという点です。今日は時間の関係で直接の討論は避け、討論の中で論議をしたいと思います。
差別とは何かということがなぜ今問われなければならないのかということですが、私が差別とは何か古川さんは83年とおっしゃいましたが、私が差別とは何かと取り上げたのは二十五年前の一九七五年です。それは部落差別論というものです。それは差別とは何かをはっきりさせないと具体的な個々の差別を論じることはできないと考え問題提起をしました。その後も差別とは何かがあまり議論されないまま最近まで来ました。しかし差別とは何か、このことを押さえずしては具体的、個々の差別をなくす運動も曖昧模糊としていきます。部落差別に限定してみれば、部落問題を論じる場合に明確にされないままだった。その結果、差別という言葉、用語が極めて恣意的、情緒的、観念的、あるいは主観的に遣われてきた。これはどんなものでも差別となってしまう。勝手に差別と捉え、同和対策事業はなお継続実施しなければならないという根拠にしてみたり、あるいは人権教育、人権啓発が必要だとする根拠にされているわけです。したがって今当面している部落問題をめぐる様々な問題をはっきりさせていく上で原点に立ち戻り、そもそも差別とは何なのかということを明らかにしなければならないし、そのことは部落差別に限らず他の様々な歴史的、社会的性格を異にしている様々な差別についても差別とは何かを明確にしないで論じているととんでもないことになっていくということです。
ここでは参考意見の二に触れてみたいと思います。
鈴木次郎さんの差別の定義です。
広辞苑では差別とは区別でありけじめである。では区別と引くと、区別とは差別でありけじめであるとあります。差別とは区別であり、区別とは差別である。何も区別されていません。あいまいなままになっています。鈴木さんは差別と区別が使い分けられていない。その結果、反差別運動において差別という概念が恣意的に用いられ、運動が情緒的に流れやすいという指摘がされています。やはりその点をはっきりさせないと運動も情緒的、主観的、感覚的な結果になっていかざるを得ないと思います。こういう傾向がとりわけ部落問題については大きな流れになろうとしています。では私は差別の概念規定にしぼって話していきたいと思います。最近差別とは何かについて書かれたものを挙げたいと思います。例えば三の社会学事典の中に社会的差別という項目があります。個人や集団が不合理な理由に基づいて社会生活上不平等な差別的な取扱いを受けていることをいうとあります。これは説明になっていません。差別とは差別的取扱いを受けているとあり、差別について説明がされていません。しかし、この社会学事典においても最後の部分で差別を意識の次元にその原因を求めて単なる教育、啓発、啓蒙の問題に解消することは誤りであると正しい指摘をしています。では解放同盟系ではどう考えているかについてですが、参考意見の一、部落民にとって不利益な問題は一切差別であるという朝田理論の命題になっています。利益、不利益という次元で差別を捉えています。極端な言い方ですが、主観的な判断に委ねられているということです。そして参考意見四の解放出版社から出ている部落問題辞典の差別という項目では差別とは本来平等であるべきでものを不平等に取り扱うことである。そして日常用語、行為、態度、意識、文化、制度というように行為も意識もごちゃ混ぜにした規定がされている。差別というのは多様な現象を啓示するには便利な用語であるけれども、厳密な概念規定をすることは難しいと解同自ら言っています。ここでは一定の概念規定をすることは避けるがとしています。概念規定ができないのです。最近ではもっとひどくなり、もっと観念的、情緒的になっている。その一つの例として参考意見の七があります。このように極めて情緒的な概念規定をしています。ところがこれは一個人ではなく、概して新聞記者の間に非常に強く見られます。同じ様なものでは解放社会学というものがあります。広島県のしゅうどう大学に江島しゅうさくとう先生がいます。研究費の不正流用問題で解雇処分になった人です。裁判でも敗訴していますが、この人たちが中心になって作り上げたものが解放社会学会です。この会の考え方も同じようなものです。差別とは深層心理、心の奥底に潜んでいるもので、科学的には把握できないものだと言っています。こういった傾向は他でも見られます。コペルという雑誌に最近載ったものですが、解放同盟に一定の批判をしています。昨年、新しくなった解放同盟の綱領に対して批判しています。それに続いてこの一年くらい差別とは、差別意識とは、部落民とはということをいろんな方が書いています。それには差別を情緒的、観念的なレベルで捉えて議論しています。私は観念的な言葉遊びに終わっているような議論が展開されています。このように差別とは何かについて極めて観念的、情緒的、主観的に従って恣意的な遣われ方をしている。これは将来様々な差別問題を解決していく上ではっきりさせないと極めて大きな障害になっていくと考えています。そこで私は差別をどう捉えるかというと、差別とは人間の不断の努力によってすべての人々に平等に保障されなければならない基本的人権の享有とその恒常が様々な理由、自然的、生得的な差異、社会的、後天的な差異、あるいは人為的な差異、架空的な差異といった何らかの差異を理由に、不当かつ実質的に具体的に制限されたり奪われたりする事実である。差別はあくまで事実であるということを強調したいと思います。そして、それは裏を返せば意識の問題になります。これは峰岸さんと大きく食い違っている点で・・・・・・
・・・・心の内に存在している差別はあり得ない。それは差別と言えないということです。私は部落問題に対して遅れた意識を持っている人がいないとは言いません。しかし、そういう意識を持っていたとしても具体的な事実として現れない限り他人の人権を侵害することはないわけです。どのような意識を持っていてもそれは観念であり、差別ではないということです。そもそも差別意識という言葉は日本にだけみ見られる言葉であるのではないかという疑問があります。アメリカやヨーロッパで差別意識という言葉が遣われたということは聞いていません。例えば人種問題等々でアメリカやヨーロッパで色々な研究が行われていますが、偏見という言葉は遣われますが、差別意識という言葉は出てきません。日本において差別意識という言葉はいつ頃から、どのような背景で遣われるようになったのか調べきってはいませんが、例えば戦前の水平社運動では差別観念という言葉は遣われましたが、しかし、部落差別は観念の問題ではないという否定的な意味において遣われました。戦後では差別観念という言葉が部落解放運動の中で遣われました。それが差別意識という形で遣われたのは先ほどの朝田理論の中で、社会意識といしての差別観念が普遍的一般的に存在しているという、その絡みの中で差別意識という言葉が遣われ出し、一般化したのではないかと思います。従って私を初め、差別意識という言葉を遣ってきたし、同対審答申でも心理的差別という言葉を遣ってきました。が、ある時点で、これはおかしいということで自己批判をし、差別意識、心理的差別という言葉は遣わないことにしています。しかし部落問題等々について遅れた意識や偏見を持っている人がいないわけではありません。それは国民の自主的な学習活動の積み重ねによって解決されるべき問題であって、国家権力や行政が上から人の内心に踏み込むようなことは絶対に許してはなりません。これを許しますと思想、信条の自由が、人権の名において侵害されていくことになりかねないきわめて危険なことになっていくことになります。このことにおいて差別意識、あるいは偏見があっても、それは差別とは言えない、差別とはあくまで具体的な事実を指し、アメリカなどでは意識は問題にしていません。具体的に現れた場合においてそれを問題にします。偏見などに対しては国家や行政が教育や啓発をしようとしたら、国民の間から猛烈な拒否反応が出るわけです。それだけ人権というものが定着しているわけです。国家、あるいは社会権力が内心に踏み込むことを絶対に許さない。心の中ではどんなことを考えても自由なんだということです。こういった背景があるので、アメリカやヨーロッパでは差別意識という言葉が存在しないのではないかと考えています。
先ほど指摘した点についてですが、人権といえば同和問題、人権問題といえば同和問題と極めて矮小化していました。その前は同和教育や同和啓発として国民はうんざりしていました。また同和かと。それを打破するために同和という言葉を遣わずに人権教育、人権啓発という言葉にしました。しかしその講演会に行ってみると、中身は同和問題だということです。そして人権問題についてもだんだん国民が拒絶反応をするようになりました、人権問題イコール部落問題では拒絶するようになってきたので、今度は人権問題に部落問題だけではなく、様々な差別問題、人権イコール差別問題という形になってきたわけです。人権問題は差別問題だけではありません。公害問題、環境問題、老人問題、過労死等々、様々なものがあります。基本的人権の享有とその向上が政治的、経済的、社会的な要因によって妨げられ、あるいは制限されています。これも差別問題と並んで重要な人権問題です。ところが人権問題イコール差別問題と矮小化され、参考意見の八の寺沢氏、現在、人権推進審議会の委員の1人でありますが、この人が解放新聞の中で人権問題は差別問題であるとはっきりと言い切っています。このような矮小化された人権意識しか持っていない人が審議会の委員をして、そこで議論をしているわけです。古川さんが指摘したように、この審議会における議事がいかに低いレベルで論議が行われているかの典型的な例の一つです。そして人権問題には様々な問題があり、それらの間にはどれが重要であり、どれが重要でないかの軽重の区別をすることはできないということです。人権問題をランク付けすることは基本的に誤っています。ところが部落差別をはじめ、として行政レベルでよく使われています。部落問題を優位においているわけです。こういった人権問題、差別問題をランク付けする人権認識こそが問われなければならない。ところがそういった人たちが人権教育や人権啓発とやかましく言い出しています。むしろこの人たちこそ人権認識を改めなければならないのではないでしょうか。今後は人権教育や人権啓発がクローズアップされるだけに充分に論議を深めていければと思います。もう一つ付け加えたいと思います。最近、ある集会に参加しました。ある人から同和行政を終結させた、同和地区も返上したという先進的な自治体の人から、人権啓発を重視してやっていこうとしたのですが、人権というとみんなが毛嫌いする。何とか人権に代わるいい言葉はないだろうかということを聞かれ答えに困りました。これは人権という言葉が泥まみれにされてきているわけです。この泥まみれになった人権という言葉を水で洗い流す、こういう取り組が今重要ではないかと思います。人権に代わる言葉をという発想自体が問われなければいけないのではないかと痛感しました。
司会:ありがとうございました。差別意識という問題では、部落問題研究所主催の研究会でシンポジウムを開いたことがあります。その時に差別意識という言葉は遣わない方がいいといった経緯がありました。それは差別意識という言葉は非常に排外主義的な考えから来ている概念だということです。そこには人権問題を国民相互の問題に転嫁するように、差別するものと差別されるものという図式主義で考える発想であり、この言葉は連帯を生まないので遣わない方がいいと言ったことがあります。それと先ほど杉之原先生が差別意識とは日本独特の言葉ではないかと指摘されましたが、解同系の、以前三重大学で教鞭をとっておられた人が差別とは何かということで、日本では差別意識という言葉を遣っているけれども、これは日本的なことで、外国では偏見と言っていると言っていました。そして明石書房から出ている差別辞典に、偏見という項目はありましたが、差別意識という言葉はありませんでした。おそらく外国では差別意識という概念を持ちだして云々と論議することはないと思われます。辞典にもない言葉です。この二十数年の間に作られた造語であり、朝田理論から生まれ、それが波及して女性問題、あるいは障害者問題等で差別意識という言葉が多用されるようになったのではないかと思います。
お聞きになってお分かりのように三人の先生方は個性が強いのでそれぞれの意見を展開され、譲りそうにありません。これから論議を深め、この問題の糸口を探っていきたいと思います。午後からの討議の参考にしたいので質問等を最初に出してみたいと思います。どうでしょう。
兵庫県:峰岸先生にお聞きしたいのですが、近代に残った習俗的差別、差別意識はもともと潜在していた意識が結婚の時に顕在化するんだとおっしゃいましたが、もともと古くからある偏見というよりは古川先生がおっしゃったように人為的垣根、部落問題に対する逆流、えせ同和行為などによって培われた偏見の方が強く、私が最近経験したものでは、私が仲人をしたケースですが、反対をされたと。いろいろと話を聞いてみると、その方自身が自分の商売上のことでえせ同和団体に恫喝され、そのことが障壁となって反対されていました。私が実感しているものではもともとの偏見よりも人為的なものが強いと思います。このあたりのことをどうお考えなのでしょうか。それとどなたにというわけではありませんが、差別問題、差別というものは基本的人権が不当かつ実質的に制限される事実だとして、一方で人権とは固定的なものではなく、時代が進めば新しい権利が生まれてくる、要求されるものだとして、それが基本的人権として享有されるものだという主張をし、それが奪われたりすることがあり得ると思います。環境権では田舎と都会では違いがあり、それが不均衡に発展していけば不当に制限されるということがあると思います。そして差別の問題は半ば永久に残っていくのではないかと思います。その疑問にお答えいただければと思います。以上です。
徳島県:徳島県では解同のえせ同和行為によって議員が議会での発言によって除名されるという事件が起きました。私が徳島県内で起きる確認糾弾や社会情勢で感じたことは、心理的差別ということでいろいろと皆さんの意見を聞いていると、心理とは目で見、耳で聞き、体で感じ、怖いなあ、嫌だなあと感じたことが心理ではないかと思いました。心理的差別とは解同の横暴によって言葉や実態が作り出されたのではないかと思います。差別とは何かということですが、心理とななにかということについての意見が聞ければと思います。以上です。
司会:木戸先生、どうでしょうか?
木戸氏:峰岸先生にお聞きしたいのですが、階級史観云々と言われましたが、社会や歴史を考える場合に、階級は基本的に重要な問題だと思うのですが、あまりに機械的な階級史観は問題だと思いますが、階級というものを今現在は社会、歴史を見る場合にどうお考えになっているのでしょうか。第二に、自由に至っていない権利が差別だと聞きましたが、もう少し説明をいただけたらと思います。そしてP200~201の、差別が維持されるために、そして差別が安定的に維持されるのは、差別者の価値観を非差別者が内面化してしまっている場合であるとありますが、これがよく判りません。僕はある時代の意識、思想、それは支配者階級の意識が全般的にその社会の意識になるのであり、このように差別者の価値観を非差別者が内面化するというような捉え方でいいのだろうかと思いました。
それと部落差別とは身分遺制だと。前近代からの規定性と近代の規定性、これを並列されているのかどうか。私は部落問題は近代の問題だと。それは過去の問題が利用される。それはすべての問題で利用されるのであり、前近代からの規定性と近代の規定性という捉え方がなりたつのだろうか。このことは逆に習俗的差別を呼んでいるということですが、これが自然発生的であり、社会的慣習として生き続けてきたのであるとありますが、自然発生的なものなのだろうかということです。現在においてそのような習俗的差別として捉えるのはそうだと思いますが、それが自然発生的なものだろ規定できるのだろうかということです。
梅田先生の捉え方については杉之原先生のおっしゃったとおり心理的差別は潜在的なものであると規定している。それが顕在化するのだと言っているわけですから、やはり心理的差別は心の問題だと同対審答申は言っています。それが判るのは顕在化した時であって、心の中にある時は判らないのだろいうことなので、梅田理解で悪くはないのではと思いました。ただ、三人の先生方が共通しているのは差別者と非差別者と二元的に表現されていましたが、そのような理解では差別とは存在しないということは共通されているのではないかと思いました。
もう一つ、近代と近代以前では差別という問題を非常に違ったものとして捉えなければならない。古川先生は近代、近代以降の問題と言われましたが、杉之原先生の基本的な人権の享有を妨げるものとなるとそちらにぐっと傾斜していくのですが、歴史において、古代、中世、近代において事実としての差別はあったのではないかと思います。それを今日発表された規定とどう捉えたらいいのかと思いました。今日はたいへん勉強になったと同時にやはり差別は判らないのだということを思いました。
司会:ありがとうございました。では午後からの進め方ですが、今、三人の方からご質問がありました。私も問題提起をしましたが、差別をどう考えるのかということで差別という概念は近代以降の概念なのかどうか、そうではなく古代や中世からも差別はあったし、その歴史的にどう捉えるのかという問題が木戸先生の方からでましたし、この点について深めたいと思います。報告になった三人の先生方の意見では違いが見られますから、この点も深めたいと思います。
二番目に差別とは実態概念なのか、関係概念なのかを解放社会学で言っています。それも念頭に入れながら差別の問題、行為と意識の問題をどう考えるのか、先ほど質問があった意識とは何かという問題を含めて深めていただきたいと思います。
三番目として同対審答申の規定付け、これについての読み方についてどうなのかという点をはっきりさせたいと思います。
四番目に先ほどの質問で差別の定義付けですが、差別問題は半ば永久に残るのかという質問ですが、これについてそれぞれ返答をいただきたいと思います。
その他では、新しい要因による偏見の増幅の問題、階級史観については個別の質問であったので、当事者にお答えを願うという形にしたいと思います。
今日のポイントは差別をどう考えるかということです。意見の相違はありますが、だんだんとまとまっていくのではないかと思います。
では休憩に入ります。
第9分科会(2)
質疑応答
司会:では色々と質問もあろうかと思いますが、三人の先生方の報告について自分の意見があれば出していただきたいと思います。
ではないようなのでそれぞれ三人の先生に発言していただきたいと思います。そのつど質問があればと思います。では峰岸さんの方から報告していただきたいと思います。
峰岸:最初に兵庫の方から出た結婚の障害の問題についてですが、かなり解同の問題が大きいとおっしゃいました。この事について私が所属している都立大学でシンポジウムを開きまして、その時には総務庁の調査で親として結婚に反対する、あるいは認めないという回答について、弱い形であれ部落に対して忌避感情をもっている存在が認められるとしています。忌避感情という言葉を遣っています。この資料を中略しながら読んでみます。「ここで私はいきなり差別意識と言わず、忌避感情という言葉で示しました。この忌避感情の中には因習的な差別意識にとらわれている人が少なからず存在すると思われます。また、この忌避感情の中には部落解放同盟に対する不信感から出ているものも含まれていると思われます。部落問題が大きく解決している中で解同の糾弾運動、同和特権行使の問題は部落問題の解決への障害となっています。この糾弾が人々に解同、ひいては部落民は恐ろしいという感情を植え付けています。危機感情の生まれてくるゆえんです。解同に追随している地方自治体、全同協、同和問題に取り組む宗教団体連帯会議、部落解放研究所、マスコミ、企業の責任は重いと言わねばなりません」とあります。ですからこの点は兵庫の方と基本的に認識は一致しているだろうと思います。なお、この文章は人文学法という機関紙に書きました。ただ、より解同問題が大きいのではないかとおっしゃいましたが、この点で僕は判断できません。僕の専門は日本近世史ですので、現代の現状問題についてそこまで踏み込んだ判断材料は持ち合わせていません。
次に岐阜の方から出た階級は重要な問題ではないと考えているのかということですが、僕が言っているのは階級一元史観ということで、内容的には様々な差別というものが階級の従属けんすうとして捉えられていて、階級問題が解決すれば差別問題も解決するという問題ではないということを言っているのであって、階級問題がどうでもいいと言っているわけではありません。女性の問題は女性の問題独自として追及していくことが現在のジェンダー論の中で言われていることであろうと思いますし、私はそれに賛成しています。
それと差別意識の内面化、非差別者への価値観の内面化という問題ですが、確かにこうなると支配階級の意識やイデオロギーについての比重の置き方は質問者と意見が食い違ってくるだろうと思います。私はより諸個人の内面性を重視します。そして近代の部落差別が前近代からの持ち越しと近代の構造が生み出したものという二面性があるという指摘については、近世までの部落差別というものが近代社会の構造の中で再生産される、近代社会の中で新しく生まれるという畑中としきさんの珍奇な理論がありますが、それは間違いであるということです。部落問題が近代で新しく生まれてくるならば、前近代の部落差別は近世後半期においてほとんど解消し、部落民が解放される。新しく部落民であるものが近代に作られるという論理になってしまいます。それはあり得ません。それと関連して、近代の部落学校ですが、これも権力による差別、分断支配によって生まれたということが言われていますが、事実に即して見ていくかぎり、部落民だけが通わざるを得ない学校が出来ることは一面においてその部落周辺の住民、子どもの忌避意識が非常にポイントになっているということです。僕が知っているかぎりでは行政側がなんとか部落学校ではなく、一つの同じ学校に部落民も通わせようとしています。これは解放令が出ているわけですから、官僚はこれを守ろうとします。それに対して民衆の忌避感情が強いということで、民衆内部の問題としてかなり重視しています。この点についてはパネラーの方と意見が違ってくると思いますが。それと習俗的差別について自然発生的なのかという疑問が出されましたが、一つには別火、別器などが言われていますが、基本的にこういったものを法的に禁止する措置が取られていないということです。常識的に考えて別火などの差別が法的な力によるものだとは考えられません。習俗的な差別の中に村政からのあ排除も起きました。近世の江戸時代の村で百姓、本村側といざ村として位置しているかわた、エタとがいますが、その場合、村の寄り合い、あるいは名主、庄屋、組頭という村役人には部落民は就けないという差別がありました。それでは一般的にエタ、かわたは名主に就けないのかというとそうではない。エタの人たちが一つの村を構成している場合があり、そこではエタの人が庄屋や組頭になっています。権力の側が一般的に部落民は村役人になってはいけないという措置を取っていないことは明らかです。村の中で差別をしているということです。このことから権力作用を過大に見ることはないと思います。もちろん権力作用がまったくないということではありません。そして一番問題になった心理的差別ですが、僕は心理的差別と実態的差別という言い方に賛成しているわけではありません。心理的差別も実態になるし、あるいは就職差別は心理的差別であるのに実態的差別として捉えているという恣意的なところがあります。この点を批判して、そこで新しく格差と障壁という二項分類をたてました。ただし心理的差別はないのだという議論に与し得ないのは先ほどの理由によるものです。同対審によれば心理的差別とは人々の観念や意識の裡に潜在する差別であるが、それは言語や文字や行為を媒介として顕在化するということですが、これは文章の作り方としてあいまいな点があります。観念が意識の裡に潜在する差別であるが、という書き方ではなく、観念や意識の裡に潜在し、それが言語や文字や行為を媒介として顕在化するのが心理的差別であるというべきであるとすべきです。そこが不明確になっています。この不明確な点をついて、梅田さん式に観念や意識の裡に潜在化するというところだけを引き出して、批判するのは正当ではないと考えています。
ところで梅田さんが心理的差別はないのだとする本山は、差別意識はない、あるいは差別意識などどうでもいい、問題は実態であり、権利の侵害であるということを言いたいわけです。それを心理的差別はないという形で表現しています。総務庁の実態調査等を見ても、なお部落民に対する忌避意識、結婚についての忌避意識、そこに含まれる因習的な差別意識があり、それはデータが示している通りだと思います。それはどうでもいい問題ではないと思います。杉之原先生は差別意識という言葉は日本だけで遣われているものだとありました。行為と意識と単純化すれば、ある行為は当然意識が伴っている、無意識の意識を含めて伴って、そういった意識は行為に現れなくとも心の中に潜在しているということはあります。俗的な表現ですが、浮気心を持つ。しかし実際に浮気はしなかった。浮気という実態はないけれども、浮気心を持ったという事実はあるわけです。単純ミゼラブルなことを言っているわけです。梅田さんは差別意識というものはないと否定しているのには、解同が実態的な差別は解消していることを認めざるを得ないので、意識の問題に固執して差別意識は根強いと言っているわけです。それに対抗する意味で梅田さん式の議論が出ているのだろうと思います。それはそれで理解できますが、アンチ解同から出発するのではなく、総務庁の実態調査等の報告から出ているような、なお部落民に対する一般の人が持っている忌避感情という事実からまず出発して考えるべきであると思います。そしてそれは差別意識については杉之原先生がおっしゃったような権力的な啓発ではなく、地域における交流や学習等によって解決すべきだと考えています。最後に自由に至る権利についてよく分からなかったという質問ですが、もう一度言います。自由に至る権利、ポイントを自由に置いています。至るは進行形です。自由に至る権利が平等に認められない場合を近代における差別というのが僕の考え方です。長くなりましたが以上です。
司会:質問はありませんか? では古川先生、よろしくお願いします。
古川:ではいくつかの感想を述べたいと思います。司会の方から三点、問題整理がありましたが、第一点、差別意識の差別という言葉をどう理解するかという点で、あくまで現代において差別を明確に考えよう、差別問題をどのように考えるかで、杉之原先生の定義、基本的人権は不当な何らかの理由等で制限され、享受できない状態の事実を差別と考えますと、封建時代における様々な身分に対する抑圧、当然奴隷制社会では奴隷に対する抑圧があり、人身売買などの人権蹂躙、そういう支配者階級の被支配者に対する様々な抑圧、攻撃、侵害蹂躙は当然あり、これらはをすべて差別と呼べます。こういった差別は人類史上どこにでもあります。社会主義になったとしてもいじめ等は発生するかもしれない。だから広い意味での差別論は混乱をもたらすだけであり、限定的に差別とは基本的人権の侵害だと理解する。そしてそれ以前の社会の民衆に対する抑圧、攻撃はどう表現するのか。それはその時々の時代で考えればいいと思います。それを封建という差別の形で総称するのはかまいませんが、あまり学問的ではないと考えます。
もう一つは、差別というものは例えば封建制社会においてあらゆることがすべて差別です。身分制というものは。武士内部にも石高、収入における・・・・・
・・・・・武家町にすんでいるのか、あるいはどういった共同体に住んでいるのかでも格差がある。封建制社会では身分、所得、住む場所、服装、職、穢れの問題ですが、穢れない役はなにかということを含め、様々なレベルでの差別的なものがあり、しかも封建制社会では差別行動そのものが社会の原理をなしている。根幹であったということです。近代において差別は社会原理の根幹なのか。違います。資本と労働が根幹です。従って同じ様な形で封建時代の差別と近代以降発生する差別を、差別という言葉を遣ってしますとその社会の根本的な支配と被支配の関係を混同することになるという意味で差別を近代以降と、しかも差別を近代以降とする意味は、近代以降は資本制社会ですから、根本的な支配と被支配との関係は資本と賃労働の関係です。そこに根本的な階級の問題がある。それに比べれば性や国籍など多くの差別の課題はあくまて副次的なもの、根幹ではない。この点で封建制時代の差別と、現近代以降の差別とは概念的に区別されるべきであると考えます。これが差別概念を正確に理解するために近代以降に遣った方がいいという考え方です。それと結びつくことに、人権、人間の権利という考え方そのものも実は人間が発見されたのは近代からです。それまでは農民の権利と義務、あるいはエタ、非人の特権と義務、あるいは武士の権利と義務、身分における権利と義務です。人間の権利と義務という観念自体がない。あくまで身分における権利と義務の体系です。この点で人権という観念が、人権侵害という言葉、人権自身が近代で発見された観念であり、それを享受できないのが差別だというのが私の基本的な考え方です。例えばユネスコで人間の権利という本が出されましたが、これは奴隷制社会から被差別民衆、あらゆる人が差別や抑圧に抵抗する様々な努力、これが昔の日本の貧窮問答歌も人間の権利の表現だとして載っています。人間解放を求めるの動きをすべて人間の権利とすれば当然古代から人間の権利はあったと理解できますが、それでは広すぎます。やはり近代の意味というものは人間というものが憲法、国家が認めた、それを承認させたということです。人権が確立したということは。国家権力によって規制される実態法のルールで人間の権利を認めたということですから、その意味をはっきりさせるために人権というものはは近代以降に遣った方がいいということです。そして前近代と近代、近代に差別というものが人為的に作られたと考えましたのは、先ほど結婚に対する忌避意識が統計で出ましたが、なぜ忌避するのか、明治以降百三十年たった今、結婚に対する忌避意識があるのはなぜなのか。その時に封建時代の別火、別器が習俗的にありました。それが結婚忌避につながっているのかということをリアルにつかまないといけないのではないかと思います。因習的に現代社会において本当にそうなのかということです。私自身は明治初期に封建反動に近い形でエタ狩りを含め様々な民衆の管理などが起こりました。ところがなぜそういった紛争が起こったのか。それはその時の現実があって起こっている。例えば入り会いといった共同体的な所有が、新しい社会に入るに伴ってそれが奪われる。入り会いの土地の取り合いがあります。単純に心から出てきたものではない。民衆との争いが発生した事件が多くありましたが、実は存在が意識を規定するのであり、突然差別意識だけが強くなるわけではない。差別意識をかき立てるもの、封建的特権、エタ身分に対する様々な特権、差別はされていましたが年貢免除、除地という特権が排除され、農民社会が再編成される中でかなり現実的な利害があり、そういう事態が発生したのではないかと思います。だから民衆が心に差別意識を持ち、それを危機管理するのではなく、現実的なものがあったということです。これは農村部だけではなく、都市部でもです。こういった過程の中で問題が出てきたということです。忌避意識がが今も生きているのかどうかは別問題だと思います。もう一つに明治国家が行ったこととして正確に理解する必要があるのではないかということがあります。基本的には資本主義を発展させるために、例えば里程表という里数後改定という、一里の距離、被差別部落などは飛ばしている。別空間であるという差別があったんです。そこを抜かして距離を計る。そうすると運賃が違ってくる。それは不合理だということで、資本主義を発展させるための合理的な要素がいり、里数後改定をする。そして田畑勝手策、職業選択、営業の自由です。これに伴って封建的な特権、あるいは義務、年貢免除地等も排除した。そして戸籍では入籍運動、中世ではもっと豊かに人間はうろついていた。漂白の民等です。これが封建時代での無籍の者を入籍させる形で戸籍整備を行った。その中で現在の部落の始まりが形づくられた。もちろん江戸時代の伝統はあります。そして通婚の自由も法制的には明治4年に確立されています。しかし、通婚の自由を明治政府が促進したわけではありません。一九〇三年の広島控訴審判決では身分を言わなかったことが離婚理由になると追認しています。あたかも新平民という身分があるかのようにです。そういう形での明治国家の措置というものが一九四五年まで続いてきた。それが人為的な垣根として民衆の因習を支えてきた点があるのではないかと考えます。民衆の普段の生活の中から自然発生的に因習を持つとは思えません。この点であえて人為的に作られた垣根という表現をさせていただきました。
そしてもう一点、行為と心理の問題については法律の方の理解の仕方では、内心をさぐる、当然民衆の意識、あるいは偏見の問題を誰が判定するのかという問題ぬきにして語れません。近代社会は一方で自由ですが、形式的に言いたいことを言う自由、例えば学問上で真理を発見した。自分の発見した真理が正しくて、他の人の真理は間違っている、これは攻撃的表現です。逆に言えば真理を探究することはものすごく難しいんです。自分が正しいと思えば他人を害することになります。形式的な自由を守るのは相互作用をまず保障しなければならない。あらかじめ国家や誰かがこれが正しいと決め、押しつけない。真理は真理だけをもって発展させようと。そのためのプロセスを保障するのは憲法的自由だと思っています。これは表現の自由でもそうです。まして心、内面の問題をどうやってやるのか。今日はこう思っても明日は違っているかもしれない。これが内心の問題です。従って差別を問題にする場合に内心をいくら突ついてもいろいろと思います。問題は差別というのは事実で考えないといけない。一番喜ぶのは権力者です。お前は言葉にしないけど内心、本音はこうだろうと認定する。これは憲法からも許されることではないと思います。以上です。
司会:古川先生のご発言に質問等はございませんか。ではないようなので杉之原先生にご発言をいただきます。
杉之原:今、お二人が触れられなかった問題で、兵庫県の西塚さんからの質問です。人権というものはますます大きくなっていく。それに伴ってその侵害が差別であれば、人権が広がるにつれ差別も生じてくる。結局差別というものは永久になくならないのではないかという趣旨の質問だったかと思います。ある意味でそういう感じもしますが、これまでも、これからも人権の中身というものは拡充してきている。人権が拡充するということは人権侵害を契機に、その人権を守るという形で人権確立の戦いが進められていく。その中で人権の中身が拡充していくということです。だから人権の拡充と人権侵害はこれは裏腹な関係で将来的にも続いていくだろうということです。ただ、差別と人権侵害、あるいは人権問題は、ただちに差別につながるということにはならないと思います。例えば過労死の問題等々は差別とは言えませんが非常に重要な人権侵害の問題です。そして差別という問題は様々にありますが、それぞれ歴史的、社会的な性格を異にしている。ということは、様々な差別が解決、解消されるそのプロセスも違うし、解決される時期も異なってくると思います。だから現代の社会の仕組みの中でも、資本主義社会の仕組みの中でも、様々な差別の解決に向けて大きく近づけていくことができる。とりわけ部落問題は近い将来の資本主義の枠組みの中で解決することができる民主主義の課題だということです。部落差別だけではなく、いろいろな差別もそれぞれの歴史的、社会的性格を反映して資本主義の枠組みの中でも解決していけるものはたくさんあると思います。ただ、性差別の問題などは資本主義、階級社会の中で民主主義を前進させていけば解決に大きく近づくけれども、これは私的所有の問題が基本的に関わってくるので、そこの仕組みがなくならないと最終的な解決はないだろうと僕は考えています。人権の中身は拡充していく中で、その拡充に関わっての差別ということが起こることは少なくなっていくだろうと思います。しかし新しい人権の中身に即して差別が起こるかもしれないと思います。
それと、その他の問題で、お二人が意見を述べられました。そして多少議論しても互いに納得できる結論には達しないようだと感じています。ただ、差別と差別意識の問題ですが、様々な差別がありますが、基本は階級差別、支配、被支配の関係の中で出てくるものだと考えます。その他の様々な差別は階級差別を補強、強化するためにつくり出されている副次的な差別であると私は考えています。この点は峰岸さんからだいぶ批判されていますが、この見解が誤っているとは考えておりません。そしてそういった差別の社会の仕組みの中で、その差別を合理化し、当然視するようなイデオロギー、意識は支配階級の側から注入されていく。しかし注入されるけれども、階級一元史観のような一義的に規定されるとは考えません。機械的な階級一元論には立っていません。基本的には階級的な諸関係によって規定されながらも、様々な媒介的要因、・・・・・・・・
・・・・・・・支配階級によって一義的に人間の意識が形成されるわけではないので、そういった差別を肯定し、当然視するような意識が注ぎ込まれるからといって、すべての人が偏見、差別意識を持つとは限りません。逆に上からの偏見や差別意識が支配階級の意識として注入される中で、それに反対し、そういった差別をなくしていくという意識も生み出されていきます。その点では、差別を当然視するような意識が国民の間になったくないわけではない。あります。例えば部落問題についていえば部落差別意識といった部落問題について遅れた意識を持っている人がいることは事実です。ただ遅れた意識を持っている人がいるのは事実ですけれども、それは差別と言えるのかどうかということです。峰岸さんや質問者が指摘されたところですが、差別者の価値観を非差別者が内面化してしまっている。あるいは自己の存在価値を優位に維持するために他者を差別する。これが差別する原因だと言われましたが、僕は納得できません。これは結局差別する側とされる側ということがあり、その前では資本者階級と労働者階級という二構対立的区分を差別問題に適用することは出来ない。従って社会総体における差別階層と被差別階層となるとは存在しえないと言っておきながら、差別者と非差別者といいう二構対立的区分をしている。そして、これが基本的な問題なのかということです。これをはっきりさせなければならないということです。意識の問題について国民の間にそういった差別を肯定視、あるいは当然視する意識があるとしてもそれは基本的に支配者階級によって注入された意識であり、その結果、峰岸さんが言われたような意識が存在せしめられていると捉えるべきではなかろうかと考えます。この点については峰岸さん自身の先ほどの発言等にも出ていました。諸個人の内面性を重視する。あるいは民衆内部の問題をより重視する。だからといって権力作用がまったくないというわけではないとおっしゃられる。この峰岸さんの議論は、私は本末転倒しているという感を拭い切れません。そして格差と障害についてですが、峰岸さんは忌避感情と言われました。そして浮気心と言いましたが、浮気心と差別意識を同次元で論ずるのはどうかと思います。例え同次元で論ずることが出来るとしても、浮気心はあくまで浮気ではないのです。この区別は重要だと思います。問題になるのは浮気であって、浮気心まで問題にしたらきりがない。それと同じで忌避感情、部落問題に関連して存在していることは否定しないけれども、それはあくまで感情であり、忌避ではない。忌避として行為が現れた場合にそれが差別になるのであり、忌避感情までを含めて差別となると際限がなくなってくる。まさに内面の問題まで取り上げることになるという危険性を感じます。もう一点、峰岸さんは九三年の総務庁の調査結果、結婚の問題についておっしゃっていましたが、あなたのお子さんの結婚する相手が部落出身者だった場合、あなたはどうしますかといった設問です。正確な文章ではありませんが。子どもの意思にまかせると答えた方は三十%近くだったと思います。親としては反対だが、子どもの意思が強ければ仕方ないと答えた方が四十%近く。そして絶対反対が数%。これをどう見るかということですが、積極、消極を合わせて八割近くになっている。国民の大多数は結婚を認めるとして意識が変わっていると見ますが、峰岸さんは親としては反対という答えは否定的ともとれると解釈しました。これが今問題になっている差別意識、意識を差別に含めるかということに深く関わってくると思います。回答の行動レベルでは仕方がないとしながら認めています。しかし親として反対だがという否定的な面を捉えて問題にしています。この点で捉え方の違いについて指摘しておきたいと思います。この意識のレベルの問題を差別と捉えるのかどうかについて基本的に関わってくるのではないかと思います。以上です。
司会:ありがとうございました。だんだんと具体的になってきましたが、これではお二人の論争になってしましますので、水を差したいと思います。先ほど杉之原先生が基本的、根元的な差別は階級差別であると言われましたが、この意見について古川先生はどうお考えなのかお聞きいたします。
古川:封建的差別という言葉があいまいだと言ったのは、社会の根本的な支配原理がなにかという点に関わって考えて、杉之原先生の副次的差別だという意見に半分賛成です。支配にとって副次的なものだという点ではまったく賛成です。ところが階級支配の問題を階級差別としてつかまえることが本当に階級支配を理解することになるのか。階級支配は差別論だけではないだろうという点で、階級差別という言葉は私は原則的に遣わないようにしています。それは差別の機能ということで、明石書店の本だったと思いますが、例えば搾取する機能、競争からの排除、非搾取階級全体のおもり、被差別集団の分断、抑圧の移譲機能、いじめられたら、下の者をいじめるということですが、そして心理的安定機能、あいつよりオレは身分が上だということで安心するという、差別の機能を出し、いろいろと出してくるなという印象を持ち、その中で搾取の機能までもが差別に入ってしまうと、社会主義になってしまうのです。現代の資本的な搾取をなくすということは差別反対が搾取反対闘争になってしまい、正しくないだろうと思います。私は階級支配が前提にあり、その点で階級一元論に近いのかもしれませんが、封建制社会については有名なマルクスの規定で「生産手段に対する直接生産者の関係が社会の根本にある」というものがありますが、その生産手段に対する関係だけで社会を見ることは間違っていると思いますが、それが根幹であることは正しいと思います。それがどういう形で、共同体関係が、古代共同体、封建共同体、そして資本主義になって、労働と資本の対立はありますが、ここでは共同とは違いますが市民社会ができている。共同体関係と階級関係は二重の関係で法律の現象を理解しようと考えています。したがって単純な階級一元論ではありませんが、階級の問題が主要です。その点から考ええると、差別の問題はダイレクトに階級の問題ではなく、社会の編成、政治的な編成のやり方の問題です。その意味で副次的な問題が基本的な差別の問題ですし、民主主義のあり方の問題です。民主主義は支配のあり方の問題ですから。民主主義の問題は副次的な問題だと理解しています。従って差別は一般民主主義と人民の民主主義ということで、人権が発達するとそれを実現できない人がいるから差別は永久に続くということでしたが、あくまで差別はただ人権が享受されない状態だけではなく、合理性のない理由、不当なやり方で享受できないということで差別を理解しているので、根本的には日本国憲法が言っている自由、この自由が差別を生むのです。アメリカでどのに住んでもいいという居住の自由がスラミズムを生み出している。表現の自由でもそうです。言いたいことが言えるから差別発言が出てくるのです。その自由の中から出てきた差別がある。しかしその問題は近代社会のジレンマであり、自由だから何をやってもいいのかという難しい問題になってくる。人間の尊厳を否定するような自由の行使に対してどうやって規制するのかが大きな問題であり、これは差別発言などを刑罰で規制することには反対で、人間を、国民を信用する。根本的なところで思想、表現の自由市場を生かすことに憲法学の役割があると思っています。従っていろんな差別問題があります。杉之原先生は性問題は社会主義にならないととおっしゃいましたが、私はそこまではいかないと思います。多くの差別は基本的に憲法の一般的民主主義、今の人権を実現する中で多くの差別はなくせるし、なくしていかなければならないという展望を持っています。その上で一般民主主義が確立しても、なおかつ国民が不幸になっている。それは独占、大企業の問題があるからです。これでは反独占、人民の民主主義の問題が出てくると思います。きわめて図式的ですが、そのように考えています。今の性、文化、出生、人種など様々な問題、アメリカが社会主義にならなくても人種問題は解決するのではないかと私は思っています。この点で差別は資本主義社会の中でも解決できるのではないかと思っています。もちろんできないものもあります。資本主義の支配が差別を利用する面があるからです。資本主義の中で解決できないものもありますが、論理的には解決し得るものだと考えています。現実の性支配のあり方、性支配の中で差別問題がどのように取り扱われるのかという形で理解すべきだと思います。したがって現在の人権教育、人権啓発は新しい形の利用形態です。そういうものとして個人の内面に踏み込む手段を模索している。いろいろな形で教育という名で行われようとしている。内心の自由の重要性を考える立場から見ると、新しい形の差別問題を利用した攻撃の意趣の可能性があるという理解をしています。
司会:私はコーディネーターですが、その点では意見があります。階級差別、階級という名がつく差別を持ってくる事には以前から疑問を持っていました。階級差別という言葉で締めくくると、差別が何かということになってくるので、階級支配の下で出てくる差別の問題ということでいいのではないかと思っています。この点について杉之原先生にお答えをいただいて、峰岸先生の反論をという形にしたいと思います。少し階級問題にこだわってみたいと思います。
杉之原:今指摘された点についてですが、階級差別が階級支配のすべてではないということはその通りだと思います。ただ階級支配による差別となると、副次的な差別も階級支配の下での差別と、すべてがそうなってしまう。その階級支配の下で様々な差別がありますが、その中の基本的なものは何かということが私の問いかけです。生産手段の所有、非所有にもとづく差別、これが基本です。これを階級差別とするのは不適切であるとするならば、より適切な言葉にすることにやぶさかではありません。階級支配の下での様々な差別を同一に論ずるのではなく、その中の差別はなんであり、副次的な差別はなんであるかということをはっきりさせないといけないのではないかというのが私の考えです。
司会:そうしますと、例えば世界人権宣言で出てくる貧富による差別という言葉、これは階級差別による具体的な内容が所有、非所有を意味しているのですか。あるいはそれも入るということなのですか?
杉之原:貧富による差別も、階級差別の一側面です。これは階級の定義の問題に関わります。私は一つに社会的生産の中でどのような地位を占めているか。その地位の違いがあり、生産手段に対する関係の違い、そして社会的な労働組織の中での役割の違いなどの関連でその社会的な富の分け前を受け取る方法と、その大きさの違い、ここに貧富の差が入ってきますが、この違いによって区別する人間集団を階級と考えています。従って階級的な差別は今申し上げたいくつかの区別の基準、それぞれについて具体的に規定されるのではないかと考えます。基本的には支配、被支配は、資本家階級と労働者階級となります。具体的に封建制社会の下では武士と農民、現代社会では社長と労働者といった関係です。
司会:では、ここで休憩に入りたいと思います。
第9分科会・質疑応答2
司会:フロアから発言が求められています。2、3の方からぜひ発言したいとのことです。まずは岡山県の方、お願いいたします。
岡山県、吉永氏:討論の中で基本的人権のいろいろな制限、否定などが差別であるということですが、もう少し大きく考えて、国際人権規約などに出てくる人間の尊厳と捉えて、これを否定する事実を差別と捉えていいのではないかと思います。私たちの人権認識の不十分さから、あるいは学習不足から人を差別していたことは間々あると思います。例えばインスタントカメラをバカチョンカメラと言い、これは在日朝鮮人に対する差別の言葉ではないかということがありました。こういった問題はすぐ解決できるかと思います。それは偏見から来ている言葉だとして正せばいいわめですから。一方、ちびくろサンボ、有名な清涼飲料水の商標に黒人が使われていたなど、一方的にやり玉にあげることは大変に問題があると思います。例えば黒人の商標問題ではすべての黒人が不快感を持つのか、あの商標が黒人に対する偏見を助長することはあるかもしれません。いろいろな表現行為が受け取る側によってこれは差別だと思う人もいれば、そう思わない人もいる。この場合、踏まれた人でなければ痛さは分からないというのは一面真実だと思います。これは差別だと言われれば、言われた人は後ずさりする立場に置かれてしまう。こうした表現行為の問題では受け取る側、受け取り方の問題があるという議論になり、どこに接点が得られるのかというご意見をお持ちなのでしょうか。
司会:ご質問は、一つの言葉が投げかけられ、それを差別と受けたと思う人、思わない人がいる。表現行為は非常に多様に取られるということです。この問題については後でご回答いただきます。
他にご質問のある方。どうぞ。
?:午前中の報告で、朝田理論によって人権が泥まみれにされ、これを洗い流さなければいけないとありました。私もこの差別意識論には非常に苦い経験をしました。四十数年前、京都で全国の青年の研修会があり、その当時、あさばぜんのすけ氏は中央委員で、私たちが色々なことを言うと、頭から怒鳴りあげ、差別を探して歩けと言われました。これにはとても腹がたち、夜中まで仲間と話し込んだことがことがあります。そして一九七〇年頃に富山県で全国自治権集会があり、部落問題の分科会があり、そこでは小森たつくに氏がいまして、差別意識論が出て、あなたたちは差別がないと言うならば帰りなさいと言いました。その4、5年後に中原ゆういちろうという人が「弁証法的唯物論」を出し、その本の中では差別などの非常に抽象的で一般的な普遍性をもっている言葉は遣い方によってはいくらでも誇張できる。リンゴを食べているを、果物を食べているといってもいい。しかしどんな果物を食べているかは分からない場合は誇張や欺瞞がまかり通るということが書いてあった。これをもって小森氏にあなたがいう差別は何をさしているのかと言ってみたかった。そして議論の大切さというものを知りました。差別や人権というものが都合のいいように遣われて学校の先生が自殺したり、行政や教育現場が混乱するところまで行われた。まだ、それが行われている。そして差別意識というものが全体としてあり、それが事件となって現れると小森氏などは言う。そうではなく、具体的な差別事件が数十年前にあった。それをみんながなくそうとしている。そこに彼らが理論をもってくる。初めに差別ありきとして、あんたたちの心に差別意識があるから差別事件が起こるんだと言ってくる。この具体的な差別とは何かという定義も大事だけれども、どういうことが差別なのかという具体例などを挙げて欲しい。抽象的に言葉でどうこう言うのではなく、具体的な事実を挙げて差別とは何かを論じたい。この理論問題は非常に重要だと思いますし、勉強になりました。
?:先ほど、ある発言に対して、それを差別も受け取ることもあれば、そうはとらないこともあるとありました。格差と障壁のうち、障壁は部落外の人からの偏見だけではなく、部落住民が持っている偏見もあると思います。全解連、兵庫県連の大会の方針で、被害者意識を克服しなければというものを出しています。朝田理論まではいかないけれども、部落問題が大きく取り上げられ、行政上でも啓発などがされていると、自らの不利益に過剰反応してしまう傾向がある。この問題も考えなければならないのではと思います。そして古川先生への質問です。先生は民主主義のジレンマとして、自由の中から出てくる差別とおっしゃいました。ナチのファシズムの経験から、自由の敵に自由を与えるのかというものです。民主主義のジレンマの問題を国際社会では体勢としてどんな流れになっているのか。それと差別の実態を解消していくということで、アファーマティブ・アクションの功罪、南アフリカでアパルトヘイトが廃止されたけれども、黒人の置かれている環境は変わらない。経済的な問題などでです。この問題を解決するためにはアファーマティブ・アクション的なことが必要になってくるのだろうと思います。もう1点、部落差別は近代以降、人為的に作られた垣根だと規定されました。明治憲法の下では社会構造の中にあったと。では日本国憲法の下で構造的な垣根が存在するのかどうか見解をお聞きしたいと思います。
司会:アファーマティブ・アクションとは日本では優遇措置と訳しています。例えば男と女、あるいは人種、民族の違いなど識別できるものを優遇措置する。学校の入学で黒人に一定の枠を設ける等です。これは後で説明していただきます。
まず一つは表現行為の問題を古川先生に。
古川:表現の自由の問題で、受け取り方の問題ですが、ある表現、意見に対し、それにに賛成、反対等、いろいろな受け取り方があるのは当然です。この問題で法律はどう扱っているか、当然、いろいろな感情、受け止め方があるのを前提とした上で、なおかつ特定、個人に対して侮辱にあたった場合にのみ規制する。後はやられたらやり返しなさい。嫌なことを言われたら言い返す。そういう場を何よりも保障する。これが思想、表現の自由の市場です。そのプロセスを保障することが大事で、逆にこの発言はいいものだから認める、この発言は悪い発言だから押さえるということをできるだけ避ける。これは近代の表現の自由の大原則です。従ってその中には不快表現、攻撃的表現もあります。しかしそこに明確に個人に関して侮辱、攻撃しているものに対して救う。侮辱罪、名誉毀損など裁判になって救うということです。これは法的に対抗措置ができます。それ以上に問題となる表現、例えば社会集団一般に対する侮辱表現、個人と特定できないものに対しての侮辱、差別表現、これをどう扱うのかに関して今、問題になっていまして、ヨーロッパを含めて個人の尊厳という概念は二つの意味を持っていて、法律、憲法では人間の尊厳として、反ファシズム、第二次大戦後に出てきた概念です。これは日本国憲法では個人の尊重として第十三条にあります。第二十四条では個人の尊厳という言葉を遣っています。これは本当は統一しなければならないのですが、一般に個人の尊厳に反する表現の自由については規制できる、あるいはしなければならないという考えがヨーロッパではあります。これについては明確なナチの宣伝を行った場合は規制できます。ただし、これについても具体的にナチ宣伝を抽象的、一般的にやったのでは規制できません。オランダ、ドイツではスキンヘッド、デモを伴うラジカルな表現行為に対して規制はできますが、一般的な表現行為は規制できません。これは対抗言論で、やられたらやり返せということで反対デモが起こります。この努力の中で表現の自由は維持すべきだということが基本的に市民社会の自由の考え方だろうと思います。我が国の場合、差別表現が特に問題になったのはマスコミの自主規制によるものです。マスコミが自主規制するのは大変に大きな問題です。これは戦前の治安維持法の下でいろいろやられましたが、大本営発表ということで軍部が悪いようにいっていましたが、マスコミは自主規制ということでものすごい勢いで迎合したのです。その過程の中で終戦直後の読売争議で、あの時の反省から新聞を作る編集権、見出しを作ったり、どういう記事を作るのか、あの編集権を労資共同体、資本家と労働者が編集権を握ろうと労資争議になったのですが、米軍が関与してこれをつぶしました。その結果、編集権は所有者のものになった。従って編集長は所有者です。記者は労働者です。労資関係では業務命令で記事が出来る。つまり記者が記事を書いても編集長に採用されなければボツになります。その編集権の一つとして自主規制の問題があり、解同はこの編集権を狙って攻撃してくるわけです。影響力を行使する。その結果、激しい言葉狩り、自主規制になってしまった。映画で、かつしんたろうの座頭市ではドキッとする言葉が出てくる。そこは音が消される。ドラマとしてまったく面白くない。放映できない。例えば映画では昔どのくらい差別されていたのかを理解するためには当時の言葉を遣わなければ分からないのですね。人間はもっと豊かに過去の遺産を含めて学び、賢くなっていかなければいけないのだけれども、権力者の残酷さ、残忍さがその言葉を用いられないがためにリアルさが薄まってしまう。例えばめくらと言いたい時に目の不自由な人となるとリアルさに欠ける。映画や劇にならない。本当に差別と闘うためにはこの表現は要るわけです。しかし、それすらも規制されてしまう。もちろん遣わなくていい言葉は遣う必要もない。そして個人に対し、意図を持って差別表現をしたらこれは法律で規制できる。現行法制でできるということです。それ以上に抽象的に、カルピスの商標の黒人、あれはステレオタイプの黒人で、黒人がおどけている。これは黒人に対してよくないイメージを与えるという。これが健全な人間の豊かさを作っていくのかということになるかと思います。そして一点目にマスコミに対する自主規制では自由を脅かしています。差別表現規制は。2点目に十年前、広島県の図書館に、解同が調査に入るということで、部落問題に関する図書を総点検し、焚書を、すべて燃やしてしまったという愚かなことをやった。そこで八木こうさくという解同の人が自分の本も燃やされたと怒ったそうです。読む人が区別できないんです。言葉が入っているものはすべていけないということで燃やしてしまった。それはいくつかの図書館、長野県でも起こっている。教育委員会でもです。図書館は市民に情報を提供する大事な場所です。そこではどういう基準で本を選び、本、情報を提供するのか、これは情報流通の大事なルート、市場なんです。その市場が特定の考えに狭められる。特定の表現だけが回らなくなる。これは思想、表現の自由が制限される事態だとして望ましく思ってはいません。マスコミ、特にテレビは大きな影響があるので自主規制は要るとは思いますが、自主規制の仕方が、特定の圧力団体に屈服する形で、しかも編集権を持っている人が屈服していく。岩波ではちびくろサンボの本が絶版にされました。ここでは国民を信用できないということです。編集長は自分の判断は正しいと思っている。これは出版社としては傲慢ではないかと思います。もちろん出版するしないは本人の自由ですが、その理由は良くないと思います。思想、信条の自由は最大限、マスコミ、出版社、普通の会話でも維持されるべきだと考えています。表現問題については以上です。
司会:表現の自由の問題では、踏まれた者の気持ちということはいつも出てきます。踏まれた者の気持ちから差別をというもっともらしい議論があります。この点については後ほど答えていただきます。この参考資料を紹介しておきます。「表現の自由」という奥平やすひろという方が書いておられますので、それを参考にしていただければと思います。私もある本に、自分に絶対間違いはないんだという独断の誤りを指摘したことがあります。岩波文庫からジェームス三木が「自由論」を出しています。これも表現の問題を考える上で非常に参考になるのではないかと思います。
では、峰岸先生。
峰岸:先ほどの階級概念のことが問題になっていましたが、私は部落問題の関係では身分概念が基本的に措定されるべきだと思い、再検討しました。身分は階級の政治的、法的現象形態であるという通説的見解を私は批判したが、歴史学の世界ではもはやその通説的見解は生きてはいないというように、歴史学の世界では大きく変ぼうしているということをまず申し上げます。階級概念についても最近の歴史学では問題視されることもなくなっています。私はそうあってはならないと思っています。ただ階級概念を所有、非所有で解けるかどうかについては問題があると思います。奴隷主と奴隷の関係、あるいは資本家と賃労働者の関係は、所有、非所有の関係ですが、貴族と平民、あるいは領主や武士と百姓の関係を、かつては所有、非所有で言われていましたが、私は分業の論理で捉えるべきであると考えています。そのことについては歴史教育者協議会編で「前近代史の学び方」という本が青木書店から出ています。そこではエンゲルスの有名な理論に階級関係の形成の二重の道筋という箇所があり、感心のある方はそこをお読みいただければと思います。ここでは杉之原先生と意見の相違がありますが、いずれにせよ事実と理論を突き合わせ、さらに議論を深めていかなければと思います。例えば部落差別は資本家によって構造的ではないにせよ利用されることによって残ったという議論がされましたが、その場合、いかなる事実をもってそう言えるのか、そのことを含めて議論を展開していかなければと考えています。そしてもう一つに自分は差別者階層と非差別者階層と区別されないと言いながら、人はなぜ差別するのかという点で、自己の存在価値を優位に維持するために他者を差別する云々ということは矛盾するのではないかというお話でしたが、私は差別者階層と非差別者階層という形で社会を両項に分けることは出来ないけれども、それぞれの差別について差別者、非差別者という関係は存在すると考えています。個々の差別についてそう言い、自己の存在価値を優位に維持するために他者を差別するというのは岡山の方の発言の通り、優位を維持するために他者の尊厳性を否定すると表現してもよろしいかと思います。つけくわえますが、バカチョンカメラで朝鮮人のチョンだとか一時期かなり言われましたが、あれはなにもかもを差別に結びつけようとする流れの中で出てきたものです。朝鮮人のチョンではありません。そして差別意識の問題ですが、これは古川先生のおっしゃったとおり、法律の場合には外形的行為が問題になり、内面について詮索したりすることはありえません。法律についてはそうですが、しかし私たち人間の生き方なり、社会のあり方から、そうでいいのかと思います。子どものいじめの問題で、先生が、生徒の内面にくぎらないで指導ができるのかと私は思います。そして差別意識という言葉の使い方が問題になりましたが、国民融合論を提起したのは1975年の五月二十六、七日の赤旗新聞に載った無署名論文、部落解放のいくつかの問題、差別主義に反対して国民的融合へというものが出発点になっています。これは画期的なものですが、私は全面的に賛成しているわけではありません。この論文の中でも差別的な真理、意識の後退という表現があるということを紹介しておきます。差別意識の問題について、差別意識一般なのか、部落差別についてなのか、性差別、障害者差別についての意識なのか、それぞれ区別して考えるべきだと思います。差別意識があるのかないのを論じるのは間違っていると思います。それと差別意識も変化していくものであり、それを普遍のように捉えるのも間違っていると思います。総務庁の調査で子どもの結婚についての意識です。子どもの意思を尊重する、意思が強ければ仕方がないを合わせると八十五%になります。結婚を認めるが圧倒的に多い。子どもの意思が強ければという積極面を押さえて、その上で、しかし、結婚は認めないという十三・七%という事実があり、親としては反対という四十二・三%という弱い形であれ、部落に対する忌避感情を持っている存在が認められるという、部落差別に関わる差別意識についても大幅に解消に向かっていながらも、なお解決しなければならない問題が残っているということが言いたい。しかし根深くではありません。そして差別の大きな解消、この変化が起こったのは基本的に高度経済成長での経済構造の変化が一番の基底にあると思います。それは雑誌「部落」の八十一年十一月号に西門たみえさんとその娘さんの堀内とみこさんが対談していて、そこで仕事の変化ということでそれが一番大きいと言っています。おばあさんの時代は男も女も村の外で働くことは考えもできなかった。よほど例外的でもない限りと。西門さんは、だから一般の人と交際する機会なんてまったくない。そして娘さんは私たちの時代からぼつぼつ村の外へ働きに出始め、そして交流、交際の範囲が広がりはじめたと思う。でも周囲の反対があり苦労する。そして今ではほとんどの青年層が村の外で働き、一般地域の人と恋愛してもまったく不思議ではなくなってきた。問題がほとんどないとは言えないけれど、二人の意思が大切にされるようになってきた。西門さんは周りでも親戚でも外の人と結婚しているしねという対談です。これは貴重だと思います。最後に兵庫の方が障壁の問題について、部落の側の問題もあるのではないかというご指摘ですが、これはその通りだと思います。格差と障壁、格差はは部落と部落外の比較の論理であり、障壁は両者の関係の論理です。両者の関係において、一般から部落へは差別行為、差別意識があり、部落から一般へは閉鎖へ、被圧迫感情、一部の暴力的糾弾があります。部落問題の障壁の問題には部落の側の残された問題があります。終わります。
司会:峰岸先生から意見と、質問の回答がありました。
朝田理論の問題が出されましたし、踏まれた者の気持ち云々という問題については杉之原先生にお話していただきたいと思います。
杉之原:先ほどから表現の自由の問題が出され、古川先生がお答えになりました。私も賛成です。ただ、補足として、差別表現、差別用語の問題ですが、人を侮蔑することを目的として造られた言葉があり、例えば第二次大戦中に中国人を侮蔑する意味でちゃんころという言葉が造られました。こういったものは不適切用語ですから遣わないようにすればいいということです。しかし一般的に差別用語と言われるものは存在しないと思っています。極論的ですが、これは差別語だと固定的に捉え得るような用語はないということです。今の差別語、蔑視語を含めて相手の基本的人権を具体的、実質的に侵害するような遣われ方をすればあらゆる言葉が差別語になってしまう。逆な言い方をすればそうなるということです。一見、バカという言葉も遣われ方によっては蔑視語のなるし、逆に親しみを込めた遣われ方にもなります。このようにある言葉が差別語であるないを個々に規定することはできないということです。どのような言葉であれ、遣われ方で差別語、蔑視語になるということです。それと受け取る側の問題が出ました。差別を受けた者でなければ痛みは分からないと言われていることです。これは朝田理論の一つです。これは一九五六年、解同の第十一回大会だったと思います。この時に部落民にとって不利益な問題は差別であるという後の朝田理論の要素として登場したものです。この時、解同の大会でも非常に議論になりました。パチンコで負けても差別になるのかといった議論が組織内部でも起こりました。問題は具体的、直接的、実質的に人権が侵害されているか否かが問題であり、痛みや傷つくとかいったレベルの問題ではないということです。そして実質的に人権侵害を受ける場合については法的措置を受ける対象になるということです。そして差別用語の問題がクローズアップされたのは解同の確認・糾弾による言葉狩りに関連して、一九七〇年代の初めから厳しくなってきました。日本放送協会等八団体が主催した「用語と差別と考える」というシンポジウムが何回か開かれて、これは二冊の本になっています。このシンポジウムの一応の結論として出されたものの一つに、言論表現の自由の問題と差別をなくす行動は接点の問題だとしています。差別の問題は。従って特定の考えや、二者択一の立場に立つべきではなく、何が問題になっているのか、何が起こっているのかという事実をタブーにせずに、すべての国民の間の開かれた討論の対象にしなければならない。そして国民の知らないところで言葉狩りや言論統制に近い措置が進められることは人権を守り尊重する運動とは相容れないというものがあります。先ほど古川先生がおっしゃった事より少し後退している感じを受けますが、これは一九七〇年代初めの頃のことですから。これは問題と少し離れますが、差別は近代の概念だとおっしゃいましたが、私は疑問視しています。それはとうじょうたかしさんのその当時の差別についての考えで、差別とは人権が侵害されている事実だとしていますが、それに続いて人権が侵害されている事実そのものを差別というのではなく、その事実を主体的に捉えて、初めて差別と自覚される。人権侵害はあくまで人権侵害であり、それはそのまま差別とは言えないという規定をしています。これを古川先生の発言に結びつけますと、確かに人権は近代社会の概念ですが、それ以前は人権についての認識は自覚されていませんした。しかし自覚されていないからといって、人権侵害はないと言えないのではないかというのが私の考えです。被害者によって意識されるかされないかに関わらず、人間としての基本的権利が不当に侵害されればその事実そのものが差別になる。例え近代以前に人権が自覚されていない、差別される側が差別されていると自覚がなかったとしても人権が侵害されているという事実はあったと思います。従って差別を近代以降と限定することについては疑問視しているということを申し上げておきたいと思います。
司会:データをどう読むかは色々な角度があると思いますが、どこに力点を置いて表現するかという問題だと思います。意見の相違が見られますが、若干の違いのように思われます。
古川:ちょっといいですか。
アファーマティブの問題で質問が出されていたのでそれについてアメリカの議論を。アファーマティブ、優先という言葉、これは非常に議論になり、優先という言葉は遣わないようになっています。積極的差別是正措置と訳されています。パブリック、公の施設、国家と取引している企業、国家そのものが採用したりする場合に比率を設けるという措置にとどまる。これがアファーマティブアクションです。従って人口比率通りに、例えば人口で十五%いるならば十五%の比率で採用する。マイノリティー、ラティーノやエイシアンを含めて入れる。その人口比率の取り方で採りすぎだとか逆差別だということでよく裁判が起こされています。ただ、アメリカの最高裁の基本的な考え方としては、アファーマティブアクションは過去の差別に対する救済として捉えられています。現在は差別はないという考えにたっています。しかし実際上、自由意思に基づいて住む場所の一致、賃金問題、結婚問題という三つの問題があります。アファーマティブアクションが行われるようになって二十年近くたちますが、確かに白人と黒人の賃金ギャップ、賃金格差は縮小してきています。これは積極的に評価されています。しかしハーバードのアフリカ系アメリカ人の研究者が、アファーマティブアクションはアフリカ系アメリカンを傷つけてきた。福祉制度は黒人の進歩のサイクルを破壊した・・・・・・
・・・・・ロサンゼルスでラティーノやブラックピープルがコリアンピープルを襲いました。あれに象徴されるような形でマイノリティー間の複雑な関係、単純にマイノリティーとホワイトという単純な関係だけで議論はできないということです。アファーマティブアクションを採用することによって黒人が多く住んでいる地域に企業が出て行かなくなる。それだけ採用しなければならなくなりますから。これは三菱が叩かれました。三菱は意図的に白人地域に行きましたから。それで日本人もレイシスト、人種差別主義者ではないかという批判を受けました。アファーマティブについてはアメリカでも見直しの面が始まっているという状況です。この措置についてはジェンダー議論、性差別の問題ですが、これは日本とよく似ています。眼差し、見ることが暴力と同じだとして、マッキントッシュという女性の学者がポルノは暴力だと言いました。女性差別に対してです。行為と心理の区別の垣根を取り払った議論が行われまして、これは乱暴だという意見がありました。心理と実際行為は区別するという反論です。そして踏まれた者の痛みに関しては下らない議論だと思います。これはアメリカでも出ます。黒人でなければ分からないと。これを言う人は不可知論者ということで、他人を理解することを放棄した人間だとなります。踏まれた者にしか分からないなら、踏んだ方の人間は絶対に理解できないということになります。反知性主義者、あるいは反理性主義者というレッテルが貼られます。知性、理性の力を信じない人、人間を理解することができない愚か者と見なされます。これでは何のために会話をするのか。会話を拒絶する議論です。これはジョナサン・ローチという心理学者の言葉です。もう一点、差別者集団という言葉ですが、男と女としますと、男は社会的に優位に立っています。しかし男はすべてが差別者集団ではない。偏見を持っている男はいます。しかし偏見を持ちながらも闘っている人はいます。従って、男女の場合、性差別ということで社会的に優位に立っている男が差別者集団になるのでしょうが、個々の差別する人はいると思いますが、では差別者集団は存在するのかということが気になりました。以上です。
司会:非常に長い討論になり、時間もせまってまいりました。では、参加者からの発言を。
広島県みよし、君田村:私のところでは同和問題が終結しています。今日のテーマは「差別とは何か」ということですが、私は教育長ですが、みよしの教育事務所から文書が送られてきます。そこには部落の児童の人数調査の件です。もちろん私は応じません。これは調査すること自体が差別ではないかと思っていますが、それに応じない方が差別なのか、反論する上でどう対処していくべきなのか明快にご説明願いたいと思います。
司会:これは難しい問題です。他に発言を求める方はございませんか?
では、文部省が行っている同和地区の児童生徒の進学等調査、この調査自体が差別ではないかということですが、私は差別であるとは言いませんでしたが、差別を固定化する行為であると言いました。これは具体的な話です。差別ではないかというご質問です。
広島県みよし、君田村:同和問題が終結している地区の教育長としてどう対処していくのかという問題です。反論するための名文句はないかという具体的なものがあればという話です。何かあれば教えていただきたいということです。
司会:同和地区の児童生徒の進学等調査についてですが、子どもの人権侵害と差別の固定化に通じるというものです。その内容については六点に渡って説明してあります。これについて文部省ははっきりと反論をしません。県に聞いたら、県は行った方がいい。拒否していないから行っている。同和地区が存在する府県の教育委員会に聞いたら、今、やめる必要はないと言っている。だから行っているんだというものでした。この六点に渡って指摘しましたが、具体的な回答があったとは思いません。しかし法務省の人権擁護局には相談したようで、その点で、差別の意図があって調査を行っているわけではないと強調していました。法務省の人権擁護局からも回答があり、それを受け、文部省の小学校課長もそう答えています。差別の意図があるかないかという単純な話にしています。府県に責任を押しつけているということです。これはやめなけれいけません。この調査を行うことが同和の固定化につながるわけです。子どものプライバシー侵害に直結していることです。これは君田村の教育長さん1人ではありません。岡山県の津山市でも市議会でもこの調査はやめるという決議を出しています。これから全国の市町村でも調査はやめるということが大きな流れになると思います。1人ではありません。ぜひ頑張っていただきたいと思います。
峰岸:今の点ですが、自分は明快な回答は出せません。個人的な考えとして、つねに強調することは変化、発展、歴史だということです。今から三十年ほど前にこの調査をするのは確かに教育上で部落と部落外で格差があり、同和教育はやらなければならなかった。その段階での調査は必要でありましたが、しかし現段階で、子どもの世界で差別はなくなり、しかも通婚をはじめとして誰が部落民だという区別もできない。このように大きく変化している段階で今さら調査をすることは差別の固定化につながると思います。視点を変えますと、憲法十四条では国民は平等であり、信条や性別、社会的身分、門地により政治的、経済的、または社会的関係において差別されないと定められています。法律的に問題になる社会的身分によって差別してはいけないんです。この表面的に見れば同和対策法は合法であるかという問も出てきます。今や部落関係の法律もなくなっているという大きな流れの中で全体を捉えるべきだと考えています。
司会:では、差別とは何か、差別をどう考えるのかという問題で突っ込んだ論議をしました。全部研始まって以来の充実した内容ではなかったかと思います。ただ差別をどう考えるかについては色々な考え方があり、差別と歴史の関係をどう見るのかも整理されていません。そして整理がつかない場合に、言いたいことが的確に表現されたか、伝わったかという問題もあります。同じ様なことを言い方が違うために共通理解が生まれないという問題もあるかと思います。この点はいずれ詰めていきたいと思います。そして行為と意識の問題、それに付随した表現行為の意見も出されました。非常に充実したものだったと思います。ぜひ来年もご参加していただいて大いに問題解決のために共に努力しあっていきたいと思います。これで終わりたいと思います。どうもありがとうございました。
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