弓矢「差別事件」の真相 本人が語る
同和教育の名で簡単に人権を踏みにじる三重県の異常な実態をあばき、校長先生の無念をはらしたい
弓矢 伸一
三重県立松阪商業高校校長自殺(1999年12月15日)の真相解明と、県教委の懲戒処分に抗してたたかう「弓矢先生を支援する」つどいが2000年10月28日、三重県教育会館で開催されました。この日、「差別者」のレッテルをはられ、県教委から処分されたことに対して、自らの名誉をかけて不服申し立てをおこなっている県立紀伊長島高校の弓矢伸一(ゆみや・しんいち)教諭が約一時間にわたっておこなった「報告と決意」の大変を紹介します。
高いところから失礼します。ちょうど一年前(1999年)、この時期のことを思いますと11月5日の糾弾会に向けて、毎日、反省文をどのように書くか、居残りの毎日でした。日が経つにつれ帰宅時間が、最初は9時だったものが、10時、11時、最後はもう夜中の2時に帰宅せざるを得ないというところまでどんどん、わたしの反省がいかに表現できるかを、厳しく問われていた時期です。
わたくしの人生においてこんな目にあわせられるなんて、夢にも思っていなかったことが起こり、これに対してたたかっていくということも生まれて初めてのことで、何をどうやればいいのか分かりませんでした。少しずつ「県民の会」のみなさまにご支援をいただいて、ここまでやってまいりました。わたし自身から発言するというのが、初めての機会でございますが、すべてを洗いざらい正直に申し上げます。またなんなりとご質問をしてください。
ことの起こりは、昨年(1999年)の4月1日から始まります。昨年と申しましても、実際自分が家を建てて住んでおりました1年間という前の状況がございます。そこのところから話をさせていただきます。
なぜ住民運動を始めたのか…
なぜ、わたしが住民運動を始めたかというところです。新しい団地というのは道路はありましたが、家が建っただけという形で、ゴミを捨てる場所(ゴミステーション)は歩いて300メートルぐらいのところで、また、防犯灯も何もありません。わたしが住んでいる区画だけ、同じ町内なのに真っ暗なのです。なおかつ排水問題もありますが、私どもの家は、町内会の境界をなす水路に流すことは許されていたわけですが、それ以外のお家はその水路に流せないものですから、家の前に台所や便所の汚水を流すように家の設計がされておりました。夏になると便所の臭いがプンとにおいますし、虫もたくさん飛んでくるものですから、「非常に不衛生な環境だなあ」と思いながら生活を続けておりました。また、わたしの下の子どもは2歳で、紙おむつをしています。毎日、毎日おむつの処理をするのですが、ゴミを出す日になりますと黒いビニール袋を3つも4つも運ばなければならない。300メートルも歩いて持っていきますと指がちぎれるばかりの痛みを覚える、という状況下にありました。「不便やなぁ、家を建てたのになんでこんな不便なことになっているのか」と、住んでみてその不便さを実感したわけです。
3月の終わり、春休みになりましたので、「1年間ここに住んでいてずいぶん不便なことがあるんやけども、お宅、家を建ったときどうやったんですか?」と近所の奥さんにお話を聞いたわけです。そうしたら家を建てるときに「排水路に水を流せないし、団地内のお隣にあるお家は、塀にぴったりつけてゴミ置き場が設置されて、ゴミのにおいが漂ってくるのに、そこへはゴミを捨てることすら許されてない」というようなお話を聞いて、これなんとかならんのかなあと…。ちょうど境界をなす水路と道路があり、そこを管轄しているお隣の町内会長さんに「なんとか助けてもらえんやろうか」という思いで相談に行きました。そしたら「あんたところは隣の町内会やけども、田んぼをはさんで向こうのほうに町ができている。あんたとこだけ飛び地のようにぽかんと団地ができて、逆にうちところの町内に接しとるから、なんやったらうちのところに入ったらどうや」という提案をしていただいたのです。わたし自身「ええ!そんなことできるのですか」と、想像もつかないことを教えていただいた、ということでびっくりしました。その可能性をさぐっていくと、団地の方の全員の賛同をいただいて、なおかつ自分の所属をする町内会の会長さんにお許しをいただいたら、分離していただけるのではないかと、そういう道筋を教えていただきました。
そのお話をいただいて、4月1日から団地の方のところへお話をしにいきました。もちろん、昨年度の団地の世話役である組長さんにこのお話をして、「なんとか住んでいる環境を少しでもよくしたいから、なんとかご協力をいただけませんやろか」とお願いし協力をしていただいたわけです。
そうやってスタートいたしましたもので、天地神明にかけて差別心でここを離れたいというようことは一切ございません。4月2日にこのお話をもっていったお家で、奥様から「これは世間には言えないことやけど、ここから離れられたらうちの娘にとってもええんさ」と言われました。わたし、このお話を聞いて「差別発言、なんとしよう」と心の中で思いましたが、新しく団地で集まった人間関係ですので、ここでその奥さんに対して「それはあまりにもむごい、差別発言や」と言うことが、あとあとの人間関係を考えて言えなかったのです。
たいへんなことを聞いてしまった、これはもうぼくの心の中にしまいこんでおこうと判断し、そのお宅を辞したわけです。そうして心の中にしまい込んだ発言を、まさかその次の日に最後の団地の方に、分離の話をもっていった矢先、「お宅が一番最後になる、よそさまもみんな賛成しておられる」ということを同行していただいた組長さんがおっしゃって下さった。そうすると奥様も「うちとこだけが反対をしておってもあかんし、皆さんの総意に従います。賛成します」と言って下さいました。なんとかその奥様も賛同をいただきました。
そのあとで、わたしが不用意な発言してしまったわけです。言った瞬間、息が止まりました。奥様から「それはどういう意味ですか!」と叱責の抗議を受けました。わたしはその瞬間から「申し訳ございません。わたしがこの団地の運動をはじめたのは差別心からではございません。自分の子どもの通学路がきっかけではございますが、なんとかこの1年間住んで、ゴミの置き場もない、防犯灯もない、そういう町内会から見捨てられたような存在になっているこの状況を少しでも改善したい、その思いで動いてきたわけです」という形で、自分の不見識な発言を謝罪しました。
同推教員から罵声・恫喝ともなう「取り調べ」が開始される
その日はもう眠れませんでしたが、皆さんの賛同を得た、ということで運動のほうを皆さんといっしょに進めていったわけです。小さな団地、たった11軒です。それをお隣にくっつけるというようなことも自治会のルール等で簡単にいくものではありません。結局、その話は自分の所属する町内会長さんから、「できない」という形で断られるわけです。その断られるときと、今回のわたしの発言をもとに差別事件だというふうに、あえてわたしは取り調べと言わしていただきますが、取り調べがなされた時期が重なりあいます。
6月1日、朝登校したら校長先生にすぐに「弓矢さん、ちょっとこっちへおいで」という形で言われました。校長室に入っていきますと同推教員3人が待ちかまえておりまして、わたしの団地のなかでの運動を詳しく知っていて、「あんたこんなことやってきたんやろ」と、4月から5月にかけての内容をこと細かく言われて、わたし自身は、「なんでこんなこと知っているんやろ。自分の住んでいるところの運動で、職場の方にだれにも話してこなかった。なんで分かっているのやろ」というふうにいぶかしげに思いました。ただ、そのあとで「あんたは〇〇さんのお家でこんな差別発言をしているのやけども、どやな」という事実確認が始まりました。
わたし自身、そういう発言をしたということは6月1日の段階で記憶から薄れておりました。ですので首をひねって「そんなむごい発言、わたししたんでしょうか」ということで、5時間ほど校長室での取り調べが続きました。あまりにも記憶がないということで、団地の組長さんのところへ行きました。「わたし、4月3日こんな不見識なむごい発言をしたのでしょうか」というふうに確認に行ったら、そこで組合長さんから「あんたそんな発言したんやよ」という形で言われ、わたしはそこでもう人間として恥ずかしい発言をしたということをそこで再確認をし、その発言をされたお宅へ謝罪に行きました。けれども、そのあと日を追うにしたがって、同推教員の中心人物であるM教諭から罵声やら、恫喝やらをあびて参りました。
私どもの学校のなかの組織について言いますと、同推委員会という会がございます。さきほどの同推教員M氏を中心に各担任の先生から一人ずつと、生徒指導・進路指導とか各仕事別からも代表を出すという大きな会があるわけです。その同推委員会でいちいちわたしの取り調べた結果を報告し、さらにそれに基づいて職員会で学校の先生全員に報告をしていく、という形をとっていきます。
けれども、校長室において同推教員と校長、教頭先生のたった6人、密室でどんな話をされているかということは同推委員の先生すら分からない状態です。だから今回、わたしが県民の会の皆さまに書いていただいたビラや、報告文章のなかで初めて「ああ、弓矢さんほんまにこんなことされとったん。われわれも何もわからなかった」という声を聞くありさまでした。
「解放同盟とパイプがある人に逆らわず指示を仰ぎなさい」と・・・
次に追って話をしていきますが、6月のはじめに「自分のしたことについて反省の色がない」という形で机を蹴り上げられ。わたし自身なんでそんな目にあわされないといけないのか、精一杯自分の言ったことについて反省心はもっております。なんでそこまで乱暴なことをやられないかんのか、と校長先生に泣いて抗議をした覚えがあります。
けれども翌日に自分が泣いて抗議したことをなだめるかのように、教頭から「M先生の指示を仰ぎなさい。あの人は解放同盟とのパイプがある。あの人に任せておいたらあんじょうしてくれる。せやからあの人に逆らってはあかん」という形で諭されました。その晩、家内に「おれはもう今日から洗脳されたみたいにしていくわ。そうせんとこの先やっていけへんわ」と自分にも言い聞かせるためにも言いました。その結果、次々と自分のところに県教委ですとか、あるいは松阪市、三重県の県民局、いろんなところから差別意識の調査や、あるいはそれにもとづく「研修会に出てこい」という指導が加えられてきました。
いまでこそ、人権という名の下に、わたし自身の人権が踏みにじられてきたと言えますが、その当時はもうたたかれるまま、「すいません」「すいません」「すいません」と頭を下げて、相手の方に逆らわない、相手の方の言う通りするのが自分の誠意をみせるものや、人間としての行いなんや、という思いだけできたわけです。
さらに、「自分の教え子を差別したんや」というふうに言われたときほどショックはありませんでした。実際「いま授業を担当している生徒、同じ町内に住んでいる生徒をあんたは差別したんや。その子の心を踏みにじったんや。これをどう償うのや」と言われたときには、まさかその子が同和地区の出身の生徒であり、奨学金をもらっている生徒とは知るよしもありません。そんな情報は担任の先生しか知らない話です。ですから、そういうことまでわたしに明かされ、わたし自身が良心の呵責に堪えきれず、このまま教員を続けることがええものかどうか、「辞表も書こうか」というところまで気持ちが追い込まれました。同推教員は「弓矢さん、辞表書いたらあかんよ。あんたのこの行いを徹底的に究明するためにはやめたらあかんよ」というような形で、励ますというよりも、わたしを教材に使い、生き証人を残していく方針での説得がありました。
7月にかけては、生徒さんのことに絡んで、自分が地域の生徒に対してどんな思いやったとか、自分の教え子に対してどういう指導をしてきたか、人権感覚のなさが今日のおまえを生んだものや、という厳しい叱責が続いておりました。8月に入りますと、「このままただ単に研修しているだけでなく、いっぺん東京で全国の奨学生が集まる解放同盟主催の解放奨学生大会へ行って来い。そこでの生徒がどんな苦しい思いをしているか、生の声を聞いてこい」というような形で奨学生大会に参加をしました。
「なんでもかんでも正直に言えよ!! あとが恐いぞ」…
8月の間には、解放同盟の聞き取りが2回ありますし、これに向けてのわたしの自分を見つめての文章、このなかの事実確認や、それから差別意識が生まれたときからどう根づいてきたのか、まさしく自分を見つめての文章をもとに確認、確認と言ってもわたしの自己の内面について鋭く問われ、プライバシーの問題など自分で思うことすら許されない、糾弾会が始まる前に「なんでもかんでも正直に言えよ。言わんかったらあとが恐いぞ。その代わりに正直に言うたら、あんたは心がラクになるんや」というふうに解放同盟の幹部さんに言い含められ、その会に望んだわけです。第1回目の会議は、まだ自分を見つめての文章をもとに、自分の確認をする段階ですが、8月の2回目の会議においては、「おまえの両親のことが文章に書いてない。自分の母親の差別心を、あるいは差別をもっている父親や母親を隠す意図があるのか」というところまで言われました。さらにその会が終わったあと、学校に戻りましたら、今度は同推のM教員から「実はあんたとこの親御さんがやっとったお店の元従業員の発言を解放同盟の人らが調べあげて、いろいろ話を聞いてきた。あんたのお母さん、昨日貸したお金をすぐにでも返せとゆうて、つらくあたるそんな人やったんやなあ」と、わたしの両親が差別者という形で言われたわけです。
このやり口はいま振り返ってこそ、糾弾会に向けて両親も差別者というふうに、わたしの口から言わせるためのものやったんやと判断できますが、その当時は、自分の大事な両親まで、差別者やなんて絶対に許せんと思いました。祖父は明治生まれで、ずいぶん差別的な言動もあったのは子ども心に承知しています。けれども両親はわたしを育てるのに、そういう姿をみてこなかった。わたし自身両親からはちっとも差別心を受け継いでいないという、心の砦というものがあったわけですが、それすらもM教員はズカズカと踏みこんでわたしの心を踏みにじっていきました。でもその言葉に対して、わたしが堅く心を閉ざすと「なんやおまえ、解放同盟の人から言われたことがそんなに苦になるのか。そんなおまえの姿よりか、おまえの発言で傷ついてる生徒のことをどう思っとるのや。そっちのほうが大事やろ」という形で、自分がどんなに人を傷つけるかということについての話は一切ありません。
「校内報告集会」も着々と仕組まれる
もう一つあります。その糾弾会が終わった夏休みのあと、「校内報告集会を開かなあかん」という話が出てまいりました。糾弾会ともう一つ、学校内の生徒を集めて壇上でわたしが謝罪をする集会を開くべきや、という話がいきなり出されました。わたし自身、こちらの話がものすごくショックでした。謝罪せなあかんという気持ちはありますけれども、自分の罪を謝罪しても、生徒からわたしに対しての信頼が100%失われるだろう、ということがもう目に見えてわかることですし、それをやったあと自分が教壇にたてるかどうか…、わたしが悪さをした生徒を注意しても、「なんやおまえ。差別したおまえに言われる筋合いがない」と、指導ができなくなる。あるいは人間としての信頼感も100%なくなる。こういう恐怖心がさきに立ちました。その話が校長室でなされたとき、わたしは校長先生に助けを求めるような形で、「するべきやと思いますが、校長先生このお話いかがでしようか」という形でこの話をふったわけです。校長先生が「仕方がない。ぜひやれ」と発言されれば、「あ、これは校長先生からの業務命令や」みたいな形で自分の心に言い聞かせて、これに向かっていくために自分を納得させようと考えたわけです。そのときの校長先生のお返事は「わたしにもわからん」というお話でした。これが8月28日です。
9月、10月と糾弾会に向けて、わたしにも取り組みがなされていきます。それと同時平行して、同推教員が奨学金をもらっている親御さんや生徒さんのお家に、松阪商業の教員がこういう差別事件を起こしたという報告を家庭訪問でする、という話がなされていきます。その結果、どうなるかと言いますと、人の口に戸を立てられないと言いますか、小学生の親御さんや生徒さんの口からわたしの名前が自然と、「弓矢が差別事件を起こした」という形で生徒の間に広まっていきます。
11月5日の糾弾会が終わりましたら、すぐに校内報告集会を開かないとあかんという形で話が出てまいりました。この話は実は8月の末に、わたしや校長先生の前で言われたわけですが、そのときは同推数員は「弓矢さんができなかったら、まあ無理やろな」と、言葉を濁して引っ込めたわけです。9月にわたしが参加していない同推委員会のなかで、密かに校内報告集会をどうやって実行するかの話し合いがなされていました。そのことが10月頭の職員会議でいきなり出されました。
一番最初に驚いたのは、解放同盟の幹部をこの集会に参加させる。集会の様子はビデオにとって録画をする。なおかつ小・中・高の同推教員すべてをこの松阪商業の報告集会に参加させ、集会でわたしの謝罪と、今後に向けての新たなる決意の報告、それから校長先生のお話、同推教員の話とおわったあと、各ホームルームで生徒と担任とで差別事件についての討論会、という形になっておりました。
同推委員会に参加していた他の教員の中から「外部の団体を呼ぶことについては私たちは反対をしていた。この案については同推委員会で採決もされていない。その案をいきなり職員会で出してきて『どうですか』というのはおかしい」という形で、10月最初の職員会議がありました。ちょうどそのときわたしは、この会議の司会をやっていましたので、もう生きた心地がしませんでした。司会を別の先生に代わっていただいて、わたしは報告集会の提案をメモする記録係りの仕事をするのが精一杯でした。この話は職員会議でなんら決められておりません。どんどんと同推教員の中心的存在であるM教員が解放同盟松阪支部の人と、M教員は必ず携帯で解放同盟の支部とやりとりしている姿をずっとみてきたわけですが、そのなかでどんどん推し進められておりました。
ときの経過でいきますと11月の後半、同推委員会で校内報告集会について「校長先生、どう思われます」と質問された社会科の先生がおられました。わたしはてっきり、「これはぜひやらなあかんのや」というふうに校長先生からの返事があるもんやと思ったわけです。しかし校長先生は「わしにもわからん。やる自信がない」というふうにおっしゃったわけです。
椅子を蹴りあげ校長先生を恫喝し、責めたてる
わたしはとなりに座っていて、「校長先生あかん。あんたがこんなことゆうたらあかん。同推教員にあと何をされるかわからん」と心のなかで必死に叫んでおりましたが、口に出すことはできず、案の定、M教員が激高しまして、椅子を蹴り上げて「あんたがそんなこと言うてどうすんのや。松商の同和教育を推進せなあかん立場のあんたが、後ろ向きの発言をしてどうすんのや。あんたがそんなこと言うから、でけへんのや。ほんなんやったらこの報告集会やめましょうか」という形で恫喝し、憤まんやるかたない形で校長室から出ていきました。
そのあと、もう一人の同推教員Iという教員ですが、校長先生に対して「M先生があんなに怒るのは校長先生、あんたの責任ですよ。あんたが悪いのです。みんながこの件について一生懸命に取り組んでいるのに、後ろ向きの発言をしてどうするのですか」と言って、M教員のあとをついで校長先生を責め立てておりました。わたしもその場に居たわけですが、いたたまれずそこから逃げるように校長室から出て行きました。
そのあと、11月28日あたりに、わたしに「会いたい」と解放同盟の県の幹部がいきなり訪問してきました。「なにしにきたんやろ」といぶかしげに思っていますと、「弓矢さん、あんた健康状態どうや。この間、10月の三同教大会であったとき、あんた随分体がまいとった。実はなあ、県連の書記長からあんたの『健康状態調べてこい』という命令を受けてやってきた。12月21日に第2回目の糾弾会を開こうという計画やけど、あんたそれに堪えられるかどうか、心配してやってきたんや」と。
わたしは「ぽかーん」としてしまいました。わたしの健康を気づかってくれるのはええけども、「第2回目の糾弾会に向けての思惑できたんか。なんや自分のことを気づかってくれているわけやない」というふうに憤然としたわけです。その時、わたしは「わたし自身の健康状態はええけれども、校長先生あぶないんや。頬がもうげっそりこけてきて、ぼくでも心配です」というふうに言った。ましてやその数日前に、M教員から校内報告集会について「後ろ向きの発言」ということでやり玉にあがったそのあとですから、「校長先生、どんな目にあうんやろ」という不安でいっぱいでした。
12月に入って同推教員のM教員は、「3年生が卒業するまでになんとしてでもこの弓矢の謝罪会を開くのや」ということで遮二無二やっておりました。12月15日がタイムリミットみたいな形になっていました。当初は12月15日に弓矢の報告集会をやるということでした。そこにおける決意文が、わたしが満足に書けなかったということで、もう少し時間がかかる、延期をしようと。しかし、職員会議でこの校内報告集会をやるかやらないかの機関決定、学校全体の承諾を得る日は15日、というふうに設定をされていました。
その日に向けて12月の初旬から担任の先生や、あるいはその他の先生方が、わたしの報告集会について二の足を踏む原因を集めだし、そのやれやんという原因をつぶせば、実施できると。
冒頭にも言いましたが、わたしが謝罪集会をやったときに、今度は弓矢さんの差別心だけではない、担任である自分のほうにも差別心を問う声が生徒からかかってくる、そうなったときにどう対処したらいいのか、あるいは自分の差別心をどのように克服してきたか、あるいはそれについての取り組みをこうやってきた、という確たるものを言わなければいけない。しかし、それがいまの段階で言えるやろか、というふうに悶々としたお気持ちをもっておられました。
「解放同盟の県連に言われてやって来た」と県教委が…
その悶々とした部分を、どんどんとこれはこうすれば解決できる、ああすれば解決できるというふうに同推教員から提案していけば、その不安ややれんやんという気持ちをつぶしていけるわけです。そして校内報告集会を実施する、ということが実現に運ぶわけです。まさしくそれをどうするか、ということで2日間連続で会議を開いたり、あるいはまた同推委員会を開いたり、という形で会議ばっかりやっていました。
そこへひょこんと12月3日、同推委員会の席上に、県の同和教育課の職員がやってきました。最初は同推委員会において、弓矢さんの報告がどんなふうにできるか、あるいは生徒が下を向くようなそんな報告集会にならないか、というふうにあれこれチェックをいれる。ずいぶん、時間も経過して、もうそろそろ会議を終わろうかというときに、「実は」と言って、県教委の職員が「実は解放同盟の県連に言われてやってきたのです。県連は松商が報告集会を1回やっただけで、終えてしまおう。われわれに勝手な行動をしとるからそれを止めてこい、と言われてやってきました」という発言があったのです。
同推委員会の先生方も県が必要にあれこれチェックを入れて、校内報告集会をなんで引き留める発言ばっかりをするんやろ、もう不満不信に思っていて、県の担当者と喧嘩まがいの口論をしたあげくの話です。松商の先生にとっては、一生懸命に前向きに取り組んでいる。なんで県の人らがわれわれの行動を止めるような発言ばっかりするのや、というふうにやり合いをしたあとです。松商の同推委員会に出ている先生方は、あっけにとられました。わたしもそうです。同推のM教員は、報告集会やれやれと言って遮二無二推進してきた。これは解放同盟松阪支部と連携しあって進めてきた。それなのに同じ解放同盟の組織のなかで、県本部がわれわれに勝手なことをするな、と止めにかかったわけです。いったいどっちを信用したらええんやろ。また外部の団体である解放同盟に「なんでそこまでふりまわせれんとならんのか」という思いをその席にいるみんなの先生がもちました。そこで、同推教員のM教員が、「県連といっぺん意見調整してきます。校長さんといっしょに言って話し合ってきます」という形でその場の話を打ち切りました。12月9日に校長先生を連れて県連のほうに行き、県連の態度も「校内報告集会は一回かぎりじゃない。また糾弾会と同じように何回も続くのや」ということを確認し、逆に後押ししてもらうような形で話をもって帰りました。とうとう12月14日、15日という日が来るわけです。
「危機管理がないからこういうことを招いた」と校長の自殺にむち打つ同推教員
15日の朝のことを申し上げます。わたしは自分のこの報告集会が、自分のみている職員会で賛成多数で決定されるのはみたくない、もうその場にいたくないという思いで、きょうはもう休みをとろうと、明日職員会で「決まった」と言われたら、そのときはその指示に従うだけと思って、教頭先生のところへ朝7時に電話を入れました。教頭先生の奥さんが出られて「うちの主人はなにか訃報があったみたいで学校へ行きました」と言われたわけです。
わたしも何があったのか、という思いで学校へ電話を入れ、「なにかあったの」と聞いたのです。そうしたら事務員が「校長先生が自殺をされました」というショッキングな答えでした。その日一日もう何も手が着きませんでした。なんで校長先生が死なないとあかんのか、死ぬのはわたしと違うのか、そればっかり、一日中考えていました。
そういう状況においても、同推教員であるM氏は、同推委員会を召集という形で、午後から委員会が開かれました。そこでは同推委員会に参加されている先生は、校長先生がずっと苦しんでみえたということを知っていますから、「わたしたちが校長先生を迫い込んだと違うやろか。もっと校長先生が、自由に心の内を言えるような雰囲気をつくってこなかった私らに責任があったのと違うやろか」というふうに口々で言い合ってました。けれどもM教員は、「校長さんは松同推の会長であって、日の丸・君が代問題を反対する立場にありながら、県からそれを掲げるように言われて苦しんでおった。危機管理がないからこういうことを招いた」というふうに掃いて捨てるように言ったわけです。
居合わせた先生から「死者にむち打つような言葉は言わないで下さい」というような声があがり、本人は沈黙をしましたけれども、わたしはここで、この人間の鬼のような心の一端をみたような思いです。けれども校長先生がお亡くなりになっても、わたしに対する取り組みはやむことはありませんでした。
年があげて1月、週刊新潮の報道があるや、あるいはこちらにお集まりの「県民の会」の方の集会があると、わたしに対する風当たりはもっときつくなりました。「週刊誌にこの差別事件のことがあがったから、この報告集会をせなあかんのや」、あるいは「松商の情報をもらしているのは弓矢さんあんたと違うか」と言って、情報提供者イコール裏切り者という形で、同推教員から2時間や3時間にわたる取り調べがありました。そういう苦しみ抜いた生活を続けてきたなかで、3月になって人事異動が言われました。わたし自身、いま現在勤めております紀伊長島高校への異動は希望しませんでした。校長先生が亡くなられるちょうどそのときに、どこへ移りたいかという希望をとる時期だったわけです。校長先生にわたしは「先生、わたしみたいなものに異動する権利があるのでしょうか。わたしの身柄はもう県教委にお任せしますから、松商に残すなり、あるいはどこかにとばすなり好きにして下さい。ぼく自身希望書く資格ありません」と校長先生にお話をしました。けれども校長先生は「あんたにも異動希望を書く権利があるんやから好きなところを書いたらええやん」とやさしく言うてくださったわけです。
1月10日から新しく赴任をした校長先生から、また1月末に校長室によばれました。「前の校長さんのときに話があった始末書・身上書、あれどうなっとる。急に県教委からはよ出せと言うてきた」ということでした。校長先生が亡くなられるちょうどそのときにわたしもそれを提出するように言われていましたが、校長先生あのような悲劇があったあと、県教委からは何も言ってこなかったものが、いきなり1月になって慌ただしく「5日間で書き上げろ」というふうに催促をされました。
「始末書」を書き換えさせられたあげくの懲戒処分
自分自身、もう慌てて「過去の自分をみつめて」の文章から、謝罪する文章をかき集めてこしらえたわけです。そのなかでこう言われたのはぼく、はっきり覚えています。「この始末書はやがて情報公開されて、解放同盟の目にとまるやろ。そのときにこの一番最後に書いてある『どうか寛大なる処置をお願いします』という文章は、いただけやんなあ。ぜひとも書き換えよ。同和教育を推進するために一生を捧げます、という文章に直しなさい」と言われて、わたしはそれにも従いました。そのあげく、その始末書を元に5月29日付けで懲戒処分を受けたわけです。
そのあと、わたしは、長島高校へやってきた県教委の教員が「弓矢さん、あんたいまどんな気持ちでおるんや」というふうな言葉で、いまのわたしの気持ちを確かめるように言いました。そのときわたしは「校長先生が亡くなられたあと、ずっと後を追って死ぬことばっかり考えていました」というふうに申したわけです。
そうしたら県教委の人は「弓矢さん、校長先生が死んだのは、あれは原因不明なんや。あんたは考え違いしたらあかん」という形で、バッサリとわたしの気持ちや、校長先生への思いを踏みにじりました。こんな連中に、わたしは指導を受けてきたのか、人ひとり死なせておいてその責任すら何にも感じないのか、校長先生を死に追いやったきっかけは確かにわたしにあったかもわからんけど、そのあとどんどん校長先生を指導し、追い込んでいったのはあんたらと違うのか、あんたらに責任の一端を感じる感情すらあらへんのか、という怒りに燃えました。そこでずいぶん悩んだわけですが、その話を聞いてから、わたしはやはり本当のことを言わなあかん、ずっと差別者のレッテルを貼られたままこのまま生きていく、これだけはしたらいかん、という思いにかられて今回の不服申立をする決意を行いました。
たいへん長い発言で時間を浪費して申し訳ありませんでした。わたし自身三教組、解放同盟、この下にいる県教委三位一体で差別者という形で処罰を受けておりました。もういわば組織的にわたしはこてんこてんにやられ、かつ、このわたしを差別事件の教材として使っていこうというふうに話されている現状です。県教委などの組織を象に例えれば、ありんこみたいなちっぽけな存在ですが、自分の信念を貫いてこの異常な同和教育という名の下に人権を簡単に踏みにじる、三重県の異常さをあばき、校長先生の無念をはらしたいという思いでたたかっていきます。どうぞご支援をよろしくお願いいたします。
松阪商業高校元教員による自治会分離運動差別事件
に関わる慰謝料不当請求の控訴審判決に関する見解
2006年4月25日
部落解放同盟三重県連合会
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