11日69歳で急逝。ご冥福をお祈りいたします。
「国民融合の理論と歴史を深めるために」
都立大学名誉教授 峰岸賢太郎(日本近世史)
国民融合の歴史は話しづらいので、国民融合理論の歴史学的解明ということで話したいと思います。
今回お話したい点は、国民融合という言葉が使われていますが、どんな意味で国民融合というのか、国民融合とは何だろうかということです。
国民融合という言葉については様々な曲解、誤解があります。また必ずしも適切ではない理解を示される方がいます。ここでは僕なりに国民融合とはこういうことだと考えていることを話したいと思います。
レジメの冒頭に「国民融合とは、日本の封建社会の身分差別の一つである部落差別を一掃して、相互の人間としての尊厳性を尊重し、人間としての平等と自由な市民的交わりを実現することである」と結論を書きました。従って国民融合とは、部落問題が解決した状態のことであり、あるいは部落問題の解決の目標とそれへの道筋を明らかにする理論であると考えています。
この国民融合論を初めて提起したのは日本共産党であり、赤旗新聞の一九七五年五月二十六・二十七日号に掲載された無署名論文「部落解放のいくつかの問題─差別主義に反対して国民的融合へ│」の中で初めて国民的融合という言葉が使われました。北原泰作さんもその前から使われていましたが、理論という形で使われたのはこの論文です。七五年ということで古くなっていますが、しかし国民融合を考える場合にはこの論文、原点に遡って考えてみる必要があると思います。
この論文は八鹿高校事件等があり、日本共産党が部落解放同盟に対して様々な批判を展開していきましたが、それを総括する意味で、単に批判だけではなく、部落問題の解決とか、解放運動とはこうあるべきであると新たに提起したものです。
この論文では国民的融合と書かれています。今では国民融合と言っていますが、この論文では国民的融合となっています。日本共産党の綱領の中では現在でも国民的融合と「的」を使っています。ただ「部落問題の解決をめざす全国会議」の中の議論では「的」を除いて国民融合にしたと言われています。個人的には「的」を入れた方が誤解を招かないのではないだろうかと思っています。
「身分差別としての部落差別」
部落問題とは身分問題だと一般に言われ、身分に基づく差別、人権侵害の問題であり、差別一般の問題でもなければ、人権侵害一般の問題でもない。あくまでも身分に基づく差別、人権侵害だということです。従って部落問題が何であるかということ。部落問題は身分問題であるという認識は要諦をなしています。それを抜きに国民融合、あるいは国民的融合を正しく理解することはできないだろうと思います。
部落問題が身分問題である場合、身分とは何かということになります。身分の概念規定をはっきりさせておく。身分とは前近代社会、前資本主義社会においての人々の固定的、社会的な地位、状態であるということです。特に地位がカギになります。従って前近代的社会は一般的に社会全体が身分で構成されている身分制社会でした。その場合、身分とは三つに類別できると考えています。
一つは人身、人間そのものが他人によって所有されている身分です。典型的には奴隷です。あるいは奴隷系列の身分。日本では古代社会に奴婢、中世から近世初期にかけて下人などという形で存在しました。その変わった形が奉公人です。年季奉公人は奴隷ではありませんが、この系列に入ります。
もう一つに分業関係、職業の分化に規定されているもので、典型的なものに武士、百姓、商人といった職業の違い、分業関係に規定されているものがあります。
これは旧来の説では一般的に所有関係によって規定されていると言われてきましたが、今では分業関係が重要視されています。
最後に、今いった人身所有や分業関係、それによって規定される身分の外部にいるもので、それがここで問題になっている穢多、非人です。穢多も職業を持っているわけですが、ここでの職業は生業として一般の職業とは区別したいと思います。
身分とは何かという場合に、全体的に身分の規定をするのは難しいので、最初の奴隷は除いて、武士、百姓、商人、穢多、非人、この身分に即して身分とはなにかを述べたいと思います。
まず身分とは生得的地位であるということです。生まれながらの地位。誰がどの地位に属するかは生まれによって決まる。親が百姓なら子も百姓。親が武士なら子どもも武士になる。親の身分が子どもに受け継がれていく。このように地位、状態が親子で継承されていくために身分は基本的に家を単位にしています。それ故に身分の上下関係は家格や家柄として表れます。
もう一つに、身分とは特定の職業、生業に固定されています。あるいはある特定の職業、生業と不可分である。その職業、生業は家と結びついていますので、その職業、生業は家業として位置し、その家業は財産や家屋を伴って、家を単位に親から子へと世襲されていきます。従って身分とは生得的、世襲的地位であるということになります。
それに対して近代社会にも地位は存在しますが、近代の地位は生まれながらにしての地位は原則的にはありません。一般的には選択的、競争的な地位。自己の意志で選び、競争でなるものです。そこで生得的、世襲的地位と選択的、競争的な地位との違いが身分と非身分、近代の地位との違いになります。
社会の中に身分というものがなくなればなくなるほど、幸か不幸か競争が激しくなるということになります。
身分は生得的、世襲的な地位ということですが、その身分の上下関係とは支配関係、その基礎には分業関係があります。武士と町人は職業の違いだけではなく、武士が町人を支配している。支配者と非支配者という違い。それによって武士は上位にある。もう一つに職業、生業に対する価値観念の違いによって決まってくる。それは武士は支配者であると同時に、武威を体現して社会を統べるという職業上の重要度から高い価値があると見なされる。支配者であると同時にそれに付随する価値観念によって上位の身分を占めることになります。
非支配身分の場合、江戸時代の例では制度として士農工商の身分はありません。制度としては武士、百姓、町人です。町人の中に職人と商人がいます。士農工商とは儒学者が遣っている言葉です。それが明治期になって市民平等の関係から士農工商と一般に使われるようになり、江戸時代の身分制度は士農工商だったといわれるようになった。江戸時代初期には町人の中でも御用達商人、大工頭、職人頭はむしろ百姓よりも上と見なされることがあり、中期には町人が百姓を馬鹿にするということもありました。逆に幕末では人が作ったものを交換する、銭でもって商売をするのは卑しい職業だと考える人もいました。例えば田中正造は子どもの頃に農業だけでは儲からないと商売をしようとしたけれども、名主だった父に商人のような仕事をするなと諫められるということがありました。しかし田中正造はそんなことはかまわないと商売をします。
武士の中には上は将軍から大名など様々に枝分かれした身分になっています。百姓の中、名主の中でも世襲名主がいます。これも一つの身分です。あるいはこの村を開いた草分け百姓だということで代々、村の中では重きをなしている場合があります。あるいは江戸時代初期に名子、門屋という百姓、そして地主に隷属している者がいました。地主から土地を借りる代わりに労役を果たす。地域によっては被官、北関東では家来という言葉が使われている例があります。
世襲名主、草分け百姓、名子、門屋といったものは伝統的な要素が規定的要因になっている。社会全般でも職業の自由から出発しながら職業を超えた家格の尊貴制として身分が決まる場合がある。典型的なものが天皇です。もともとは職業の重要度から出発しているものです。身分の上下差は尊貴観念や、浄不浄の観念によって理念的にも序列化されている。平等観念は基本的になく、常にどちらかが尊い、卑しい、あるいは浄なるものと不浄なるものという分け方は理念、意識、思想、観念の上でもされているということです。
以上が身分についての一般論です。基本は生得的、世襲的な地位ということです。
部落問題として問題になるものは江戸時代においての穢多、非人、茶筅という身分として存在しているものです。普通は穢多、非人と呼ばれていますが、中国地方の瀬戸内海地域では茶筅、近畿地方では夙、あるいは三条、東海地方ではささら、日本海側では鉢屋(はちや)、加賀藩では藤内(とうない)と呼ばれていました。この人たちは明治期に雑種賤民と呼ばれました。雑種賤民とひとくくりには出来ないのですが、大体この身分は西日本に多く、東日本での実態はよく分かりませんが、関東地方では鐘打ち、鐘叩きと呼ばれた身分が同じものに属してくるのではないかと思います。
穢多、非人も親がそうであれば子ども同じだという世襲的な地位であることは疑いようがありません。その意味では身分である。身分ではあるけれども武士、百姓、町人などの身分とは違った性格を持っています。このことは明治以降、身分制度が解体していく中でも身分差別として残ってくることに現れています。穢多、非人、茶筅とはどういう身分なのかを理解する必要があります。
最初に非人ですが、物貰いです。一般の物貰いとは違い、正月、五節句、今では三月三日と五月五日しか残っていませんが、江戸時代、五節句は宗教的な行事として行われていました。もともとは厄払いの日でした。もう一つに結婚式や葬式のある家、こういった決まった日や吉凶事のある家を回って米や銭を貰い受けた。それを江戸時代に関東では勧進といっていました。これには縄張りがあり、その縄張りを勧進場と呼んでいました。勧進という言葉はもともと中世、特に鎌倉時代僧侶が寺などの建立、再建、修繕とするために村々を回って寄付を集めた。それを勧進と呼んでいました。有名な東大寺の再建の時には東大寺の勧進式にはちょうべんという有名な僧侶が勧進式になりました。江戸時代に入り、これは関東に限られますが、非人のことを勧進と呼ぶようになりました。江戸時代、寺や神社が寄付集めをする時には勧進という言葉とは別にかんげという言葉を使います。おそらく非人の勧進とは区別する意味で使ったものだと思います。非人とは定時、正月や五節句などに勧進して生計を立てる存在でした。ただ非人は、非人仲間に入り、勧進場という縄張りを持っていましたが、その仲間に入っていない非人が江戸ではしだいに増えていきます。その人たちをのき人と呼んで一般の非人とは区別するようになります。のき人はむしろ不定時に勧進していました。
次は穢多についてです。関東では長吏と呼ばれることが多いわけですが、長吏も米や麦の収穫時に百姓から一定量の米や麦を貰い受けることを行っていました。典型的な例では信州に一把稲といって刈り入れの時に一把だけ丸めて田畑に置いておきます。それを長吏の人たちが持って帰る。穢多、長吏も非人の勧進と同じような性格を持っています。
長吏を一番特徴づけているものに斃牛馬を得てこれを解体する。皮や肉などを得てそれを生業にする。これを幕府や藩、あるいは村などからこの仕事を押しつけられたといわれますが、私はそうは思っていません。一般に百姓が飼っている馬や牛を捨てる場所は村で決まっています。それを見回って捨てられた馬や牛の皮を剥ぐ。これを売って収入にする。斃牛馬の取得、解体も基本的には捨てられたものを持ってくるので、広義では押しつけられたものではないと思っています。江戸時代、穢多は土地を持ち、農業を行い、年貢を納めている。ですが穢多、長吏たらしめている一番の根幹、特徴は斃牛馬を取得しているということになります。それが他と区別している点です。この意味で穢多や非人は分業、所有を前提にしているわけですが、人身的所有の外部にあり、勧進によって生きざるを得ない人、勧進身分に規定し得ると思います。
江戸時代、被差別身分の中で最も強く社会的に差別されていたのは穢多で、次に茶筅、非人になります。これらは勧進身分である。もう一つにカースト身分であるという理解が必要だと思います。特にカースト身分という意味では非人は弱く、穢多は強い。穢多は固有の差別を受けていました。別火、別器、別婚、別居床、家内立入忌避、別食、別浴、村政からの排除というような他の身分ではほとんど見られない習俗的差別を受けていました。火を別にするのはもともと同じ釜戸で煮炊きしたものを食べないというのが一番ですが、日常生活ではタバコの火をやりとりしないということです。当時のタバコはキセル、きざみタバコです。百姓と長吏との間では一切しない。これにはいくつかの資料があります。越後塩沢の北越説附という有名な随筆の中に美人という項があります。これは別火のことを書いたものです。別器は同じ器を使わない。百姓の地主の家で農繁期に部落の人が手伝うことがあります。その場合も江戸時代の資料には湯飲みを懐中、懐に入れて、その器で百姓から注いでもらったお茶を飲む。別居床、居床を別にしていた。これはよく知られているところです。家内立入忌避、百姓の家の中に立ち入ることを禁止されています。これは地域によって違いますが、だいたいは軒下までしか入れないというのが一般です。当然、家の中に座乗することはできませんでした。別浴とは同じ風呂には入れない。別婚についてですが、身分制社会では一般に身分内婚、同じ身分同士での結婚が原則でした。ですが百姓と町人の結婚は多く見られました。しかも江戸時代は兵農分離という形で武士と百姓、町人の間は厳しく分けられているといわれますが、例外的に武士と百姓、町人との結婚がありました。これは最近の研究で明らかになってきました。しかし穢多、非人身分との結婚は絶対といっていいほどないということで強調せざるを得ない。江戸時代の差別の中でも服装、木綿や下駄を履いてはいけない。かぶりものをしてはいけないなどがありますが、それは二次的なものだといえます。今いいましたものは一次的、規定的、日常的な差別であると言えます。そのような習俗的な差別は本質的には通常の人的交わりから排除する人間隔絶の差別と言わなければなりません。そうした習俗的な差別は中世期から始まったもので、権力からのものではありませんでした。むしろ自然発生的なものです。社会的な慣習として生き続けたものです。江戸時代の資料で分かってくるのは被差別民の中でこの社会的慣習を部分的に破ろうとすることです。これは悶着になり、事件として文書、資料として残ることになるわけです。そして藩の方でも別火を守れという法が出てくる。法が出てくるのは崩れてくるようになった時です。もともと何々をしてはいけないという法律はありません。こういった習俗的差別の背景には穢れ観念、出生観念、血統観念がありました。穢れ観念には穢多という呼称に象徴的に示されています。この穢れ観念の背景には斃牛馬と関わりを持っていたことと不可分の関係にあります。出生観念は被差別民を指して「種姓格別ナル者」、生まれが特別なものだという観念があります。この観念は穢多や茶筅などが習俗的差別との関連で他身分との移動がなく、系譜的にも固定しているところから一種の偏見として出生観念、血統観念が生まれてきたのだと思います。この穢れ観念、出生観念、血統観念が背景となって習俗的差別が存在しているということです。このような習俗的差別、差別観念が規定されていることから私はカースト身分と見なすわけです。カーストとはインドの身分です。インドにも被差別民がいますが、カーストだけが被差別民ではなく、すべての身分がカースト身分です。別火、別婚、穢れ観念がつきまとっています。日本の場合では・・・被差別身分とカースト身分という規定からすれば、被差別身分の対極にある天皇はカースト身分であると言えます。
「身分差別の遺制として部落差別」
明治維新の変革によって廃藩置県があり、徴兵令があり、廃刀令によって武士身分は解体されました。士族という名称だけは残りますが何の特権もありません。また、平民に名字を名乗ることが正式に許される。そして平民と華士族間の結婚も許可されます。さらに明治四年八月二十八日(一八七一年)には解放令が公布されます。これによって近世封建社会の身分制は解体され、法的には市民平等の社会になったと言えます。しかし旧穢多、非人、茶筅等は解放令にも関わらず身分としての差別が社会的に根強く残りました。身分としては生き続けますが、それは本来の身分ではなく、身分遺制になったと思います。差別は非常に強いのですが遺制である。それは一つに解放令により法的には否定されているということがあります。もう一つには根幹、物的基礎ともいえる斃牛馬取得からの離脱です。この二つから身分遺制になったと言えるでしょう。
では身分遺制となったものがなぜ再生産されるのかということですが、差別とはカースト身分として習俗的身分としてあった。それが社会的慣習として生きてきた。法的には廃止されても社会的慣習としてなくすことは出来ない。これが強く生き続けるということになります。明治期になっても別火、別器、別婚等々は根強く残り、生き続けます。そして明治以降の資料になって初めて出てくるものがあります。例えば酒屋などへ買いに行くとき、酒屋は銭を直接手で受け取らない。たらいなどに銭を置かせる。それを水で洗ってそれから受け取るといったことが行われる。これも直接では穢れるからということからです。
そして近代社会は身分制は解体されたとはいえ、身分的社会状況、いろいろな形で身分的要素が残っている。例えば既成地主制、地主小作関係が農地改革まであり、単に経済的関係だけではなく、親分子分的な関係がありました。あるいは工場でも女工さんなどに典型的に見られるように、身代金で身柄を工場に拘束される。自由に移動できない。手紙も開封されていたというように身分的な色彩がありました。あるいは資本の方でも財閥といったように身分的な要素が見られました。さらに市民平等となりますが、新たに天皇が大きく権力的に浮上し、華族が、身分が作られるわけではないのですが、身分的なものが作られました。これは江戸時代の公家、大名などです。他に特権はありませんが士族といって身分的な色彩をもったものが近代社会で新しく作り出される。このように近代社会では慣習として生きているだけではなく、それを再生産する身分的な社会状況があったということです。この身分的な社会状況の頂点にあり、それを総括したのが天皇です。これは明治憲法の上で神聖にして侵すべからざると規定されている。明治憲法では万世一系、血統が公然といわれる。先祖の天照大神いかんからその血筋を受けて天皇という地位にある。天皇という地位の正当性を憲法の上で血統に求めている。出生観念、血統観念において天皇が頂点にいるということです。これが部落差別を身分遺制として再生産する要素として重要であろうと思います。これが近代天皇制国家ということです。
「近代における部落差別の現れ」
格差と障壁
近代における部落差別の現れを「格差と障壁」と類別しています。格差とは部落とそうではないものとの対比の論理で比較です。居住条件、収入、職業の違いが格差であり、障壁とは両者との関係です。これは習俗的差別が一番の根幹です。
近代に入るとそれに加え学校差別、就職差別が入ってきます。これは実態的差別と心理的差別と同じです。
「融合とは」
国民的融合、国民融合
国民的融合という場合に、融合という言葉を理解しなければならない。一つに融け合うこと。部落問題に関連しては身分と身分の関係をなくすこと。身分を解消することはまさに融け合うことです。違ったものが融け合って一つものになるということです。それがしばしば間違って二つの違ったものが結びつく、連帯すると理解されることがあります。そうではなく一つに融け合うことが融合です。そして一つの区別も差別もない存在になることです。同じ人間として自由に交わり、連帯、結合することです。従って融合といえば仮に旧ちょうりであったからといってももはやその人は被差別民ではない。あるいは先祖がそういう人たちが住んでいた場所だからといって、そこが今でもあるからといってそこを部落と呼ぶのは間違っているということになる。そのような中で人々は先祖の身分を問題にしなくなり、先祖の身分についての記憶も失われていく。このように融合を遂げていく、人間としての平等、同権を確立していく。自由な市民的交わりと結合を実現していく。それが融合ですが、これは具体的な格差と障壁をなくしていくことによって実現していくと考えられます。歴史的に考えれば武士と百姓の間は融合を遂げているわけです。それと同じように融合を遂げる。ただ、それが今まで残ってしまったのにはカースト身分という特殊性を持っていたからです。そして身分には何らかの特権と結びついています。武士は名字や帯刀。あるいは年貢を取る。こういった特権を持っていては融合を遂げられない。あくまで特権を否定することによって融合が遂げられる。被差別民でいうと、旧ちょうりは斃牛馬の処理、解体からは離脱している。だから身分遺制であり、問題なく融合を遂げていくことができるということです。
戦前では融和という言葉が遣われましたが、違ったものがうち解けるというニュアンスが含まれますので、融合は非常に適切な言葉だと思います。
「国民ということ」
国民融合の「国民」は何を指しているのか。これは融合を推進、実現していく主体、これが国民ということです。国民が主体をなして融合を実現していく。その意味では市民的融合でも、人民的融合でも差し支えないと思います。ただ今の運動用語としては国民とした方がリアリティーがあるのでしょう。
国民が主体となってということですので、共産党が最初に遣ったように国民的とした方が良かったのではないかと感じます。
「国民融合の到達点」
国民融合の到達点も格差と障壁という面から見てみます。
格差の面では、例えば居住条件、環境などで一般と部落との差はほとんどなくなっています。住宅の部屋数についても、同和地区では一つから二つの部屋に住んでいるという比率が四・三%全国平均では十四・八%と全国平均よりも上回ってます。一つの家で七部屋以上になると同和地区では二十八・一%、全国平均では二十一・三%という形で格差は消失している状態になっています。
障壁という面では別火、別器などということはありません。残っているのは結婚問題です。この問題についても、総務庁の調査で同和地区の夫を指標にした場合、年令が五十一歳の人では同和地区の人と結婚した人が多いのですが、四十五~四十九歳の夫では地区内婚と地区外婚とは同比率になっています。これが二十五歳未満になると地区外との結婚が七十%近くになっている。若者になるにつれて両者間の障壁が崩れ、融合婚が圧倒的に増大している。これは部落問題解決の中でも最も困難なものだといわれていた結婚問題ですが、結婚問題でさえ大きく解消しているということです。この障壁の面でも問題がなくなっているとはいえませんが、解消に大きく前進しているといえます。ただ格差の内でも部落の中に日雇いや臨時などの不安定雇用者が多いという実態があり、この意味での格差はあります。不安定雇用の全国平均は十一・二%ですが、部落では二十・二%になっています。しかし年齢別に見ると五十歳代で二十二・一%、六十歳代で四十一・九%、不安定雇用者の比率は一般と縮まってきています。しかし縮まっているとはいえ部落において若年層でなお若干の不安定雇用者が多く、格差があるということは一つの問題点です。進学について、高校進学については四、五%の差が続いていますがほとんど差はないといっていいでしょう。しかし大学進学率について一九九一年度では同和地区で十九・九%、全国平均が三十一・六%です。ただ十九・九%といっても部落の高校生全体をとったものではなく、高校で同和奨学金を受けている人についてのデータなので、これはもう少し縮まると思います。それは別にしても差がある。これをどう理解するかということです。これについては解放同盟の「部落解放」という雑誌の一九九六年六月号に当時書記長だったくみさかしげゆき、各県連の書記長など数名での会談が載っています。ここに大学進学率のことを問題にしています。
まさひら氏(広島県連の書記次長 )、出口氏(奈良県の書記次長)は親や地域の教育力だといっています。大学進学率は行政の力でどうこう出来るものではなく、中長期的な傾向で、家の中や地域での教育環境の問題で、こういった改善をすることでしか解決できない。それとの相関関係で不安定雇用もなくしていくことができる。行政の力を借りるのではなく、中長期的な展望で行っていくということだろうと思います。全解連の綱領的文書の第三項目にある自立という課題につながる問題だと思います。
国民融合は高度経済成長の中でぐっと進むと考えています。それは例証として雑誌「部落」の八一年十一月号に詩人の西門たみえさんとお孫さんのふみこさんの対談が載っています。この中でふみこさんは「仕事の変化が一番大きいんじゃない。おばあちゃんたちの時代は男も女も村の外へ出て働くということは考えも出来なかった、よほど例外的でもない限り」そして西門さんは「だから一般の人と交際する機会なんてまったくない・・・・」
というように社会経済的な構造が基礎にあります。部落の人が部落の外に出ていけなかった状態が、高度経済成長の中で部落の外の工場などに働きにいく。そこで普通の交際が深まり、そこで結婚もするようになるということが差別がなくなる基底にあると思います。
「国民融合をめぐるいくつかの議論」
国民融合についての誤った理解。
一つに畑中敏之さんは「国民融合というものは、特に全解連が主張しているような同じ国民なんだから違いはないんだ、だから融合なんだという考えは間違いだと思います」という発言をしています。先ほど言ったように同じ国民なんだ、だから融合なんだというのは国民融合ではないのです。同じ国民というのは当然の前提です。身分の違いをなくしていくから融合なんです。国民という言葉を遣っているのは、国民として、国民が推進力となってという意味で国民という言葉を遣っているのです。同じ国民だから、だから一緒なんだと曲解している。これは畑中氏に限ったことではありません。国民融合論とはそんなものではない。
もう一つに、杉之原さんが畑中氏への反論として、国民という言葉を遣う場合に、部落問題だけではなく、アイヌ問題も含むから国民と遣うのだと言っています。これも間違っています。アイヌも同じ国民ですが、アイヌは身分ではありません。アイヌは民族です。身分はなくしていくものですが、民族は民族としての尊厳性、民族としての言葉、文化が尊重されなければいけない。アイヌ民族もそうです。融合ではありません。アイヌ問題は民族の尊厳性、民族文化などが尊重される。それが新しくアイヌ新法として決められました。あくまで違いをなくして融合するのではなく、民族としての尊厳性、文化を尊重するという問題なので、というものです。
以上で終わらせていただきます。
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