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「解同」の「確認・糾弾」合法論は誤り

「弓矢人権裁判」12月公判に弓矢弁護団が提出した意見書より
横田耕一氏の「違憲性批判」意見に対して


第7 乙ロ118~120に対する反論

 1 横田意見書(乙ロ第118号証)に対する反論

 (1) 横田意見書は、「法務省通知(甲第78号証)」の中の「確認・糾弾会への出席についての相談を受けた場合は言うまでもなく、相談を受けない場合にも必要に応じて、『確認・糾弾会には出席すべきでない』と指導する(同5頁)」ことは、明らかに集会の自由に対する公権力による許されない介入であり、違憲であると主張(10頁)するので反論する。

     因みに、横田意見書は、「法務省通知」中、確認・糾弾会には「出席する必要はない」と指導することは容認しているものである。

   1) 確認・糾弾会は、被糾弾者に対して、糾弾学習会への出席を事実上強制し、被糾弾者の人権や人格を踏みにじり、被糾弾者が解同の言い分を受け入れて、被糾弾者の意識又は考え方を変革するまで、強要を続ける場であり、明らかに被糾弾者の思想・信条の自由、内心の自由の侵害が行われる違法な集会である。

      すなわち、確認・糾弾会は、解同がその差別事件糾弾闘争方針に則り、数百人の解同同盟員が参加して被糾弾者を取り囲み、組織として、被糾弾者の人間変革(意識や考え方を変革)を強要する場であり、その追及(強要)を通じて関係者、行政機関などに、この事件を通じて解同の主張する差別の本質と解同が要求する当面解決をせまらねばならない課題を深く理解させる(押しつける)場であり(乙ロ27・247頁)、被糾弾者が解同の求めるような人間変革を完了するまで、また関係者や行政機関が、解同の要求する課題の実行を約束するまでエンドレスに続け、そして被糾弾者が糾弾会に出席しない場合は、糾弾要綱を社会に公表し、行政指導を行わせたりして、被糾弾者に対する批判の世論をまきおこすなかで、社会的責任をとらせるものである(乙ロ27・248頁)。

      被糾弾者の意識変革を強要する行為が、思想・信条の自由、内心の自由に反することは、人事異動や命令研修の目的が差別文書を認めるという意識変革にあって、人事異動や命令研修の本来的目的も存せず、解同矢田支部の要求に応じて行ったことが、思想・信条の自由、内心の自由を侵す違法な行為との判決(矢田民事事件、昭54・10・30大阪地裁判決、判時963号119頁、昭55・12・16大阪高裁判決)からも明らかである。

      法務省は、違法な確認・糾弾会には「出席する必要はない」にとどめず、このような確認・糾弾会には、少なくとも公務員には、行政の中立性、主体性をまもる立場から、「確認・糾弾会には出席すべきでない」と指導して通知したものである(甲第78号証)。

憲法の人権保障規定を順守し、行政の中立性、主体性を守るために、「確認・糾弾会には出席すべきではない」との指導を発したのは、何ら憲法21条に保障する集会の自由に抵触するものではない。 

   2) 横田意見書は、解同の行う確認・糾弾会の実体をみずに、確認・糾弾会を単に「差別問題解消のため被差別者や被差別集団が私的に差別者と被差別者とが向き合う機会」と考えるから、法務省通知を違憲と主張しているにすぎない。

      「法務省通知」は、解同が行う確認・糾弾会自体を否認したものではなく、あくまで、解同の意向にそった被糾弾者の意識変革が完了するまで続ける違法な確認・糾弾会に「出席すべきでない」と通知を発したものである。

(2) 横田意見書は、「糾弾学習会への出席要請がある程度は道徳的強制の要素をもつことはありえよう」とも主張する(5頁)。

    確認・糾弾会への出席要請が道徳的強制の要素をもつとは、いかなる意味なのか、全く趣旨不明である。道徳に強制の要素は存在しない。

(3) 横田意見書は、「一般国民以上に部落差別解消が義務づけられている公的機関(例えば県教委)が、糾弾学習会といった差別意識認識・解消の場に対して好意的であっても不思議ではないし、その結果として糾弾学習会の開催に一定の関与(出席要請の伝達、職員の出席)を行っても法的には許容範囲内にあると言える(もちろん積極的に出席を強要したり、法的に出席義務があることを伝えたりすることは憲法20条、21条等に違反する)。」とも主張する(5頁)。

    しかし、解同の行う違法な確認・糾弾会は、同和問題の解決にとって著しい阻害要因となっており、それ自体、被糾弾者の思想・信条の自由、内心の自由を侵す違法なものとされているのであるから何ゆえ公的機関が好意的でなければならないのか。

    公的機関(例えば県教委)が部落差別解消義務を負うているものではない。公的機関は部落問題の解決の課題を担っているものである。

    県教委も公的機関の一つとして、部落問題の解決の課題を担っているからといって違法な確認・糾弾会に対し、「好意的」であるべき理由はない。課題を担っていることと具体的施策とは、別個の問題である(加須市長選挙無効請求事件、東京高裁昭51・2・25判決、806号・25頁)。

    また、なぜ、解同の行う違法な確認・糾弾会の開催への出席要請の伝達や、職員の出席をさせなければならないのか。これは、違法行為の幇助にあたるもので、法の執行を行う公務員として許されないものである。

    なお、宗教の自由を保障した憲法20条に違反するとの主張は、全く趣旨が不明である。

(4) 横田意見書は、「裁判所はこれまで、積極的に糾弾学習会を肯定したとまでは言えないまでも、糾弾学習会が違法なものであるとは決してしていないのである。」とも主張する(6頁)。

    横田意見書があげる大阪高裁昭和56年3月10日、同昭和63年3月29日の判決は、被告人らが、糾弾権の行使として正当行為にあたるとか、可罰的違法性を欠くとの主張に対し、被告人らの行為はいずれも違法であるとした判決である。「糾弾学習会が違法なものであるとは決してしていない」とは判決のどの部分を指していうのであろうか。

 (5) 横田意見書は、「少なくとも部落差別問題にあっては、行政(司法・立法も)は被差別者ではないことはもとより、中立的第三者でもなく、むしろ差別者の側(とりわけその主たる責任者)であることは、これまでの歴史を振り返る中で公的にも確認されてきたところである。したがって、部落差別問題で『行政の(差別者と被差別者の間での)中立性』を語るのは筋違いである(5頁)。」とか、「差別問題には、中立的立場はなく、多数者や国家機関(裁判所を含む)は、主観的認識はともかく、差別する側にあることを三思すべきである(10頁)。」と主張する。

     確かに行政が差別をしたことはあるが、むしろ、それは解同との連携の下に行った窓口一本化行政等では、解同が求める行政をしたため、被差別部落の中に新しい差別を生み出し、それが、「本件児童は、差別をなくすことを目的とする行政の名の下にいわれない差別を受けるというまことに遺憾な結果となっている(貴船保育所入所措置解除処分取消請求事件福岡地裁昭52・12・23判決、判時898号48頁)として」行政の公正・平等の立場から処分の取消がなされている。

     まさに、本件の如く解同が差別を生み出す行政を強要したからに外ならない。斯様な例は枚挙にいとまがない。行政で求められているのは、正しく公正、平等な行政であり、行政の中立性である。

     なお、これらの主張は、差別について極めて特異な主張であるが、社会を差別者側と被差別者側とみたり、行政・司法・立法機関を差別する側とみることにより、部落問題の解決ができるのであろうか。その解決の道筋を明らかにされたい。

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