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片山知事と杉根県議

2005.12.13 :
平成17年11月定例会速報版(12/13 一般質問)

◯22番(杉根修君)
 さて次に、人権救済条例についてであります。
 人権侵害に関する公的機関による相談、救済の多くは国民が求めています。公的な人権救済の仕組みをつくり上げることが、県民の多くの願いでもあります。
 さて、鳥取県には、鳥取県とかかわり合いになると人権侵害に加担することになる、人権を踏みつける条例のあるところには行かない、韓国、北朝鮮に対して文句を言えなくなる、知事と県議会議員と一部の人たちによる悪質な裏取引があった、鳥取県民を日本の特別国民と言っていいようなものだ、特定外国人と県議会議員の利権を守る条例だ、人権暴力団の巣窟になる、知事や県議会議員のほとんどが無能で無知で売国奴だったことは知っていた、北朝鮮と解同のかかわりがあることを知事は知っておる、鳥取県はますます過疎化が進行する、日本人が日本で差別される、ふざけるな、と県に対してのファクス、メール、電話の一部の内容であります。唖然とせざるを得ません。正当な真正面からの議論ではなく、これがマスコミ等の報道によっての国民の反応であります。まことに恐ろしい。無理解な日本人の人権感覚の低さと、社会の差別構造と、確信犯的なものを見るような気がいたしました。県外から組織的に行われていると思われるものや、人権侵害的な内容が多く含まれています。県民の代表が県民の願いを条例制定で県政に反映させる行為なのに、地方自治の制度趣旨に反する反対抗議には理解できません。
 基本的人権の尊重は、憲法の原理であり、憲法に抵触すると指摘するならば、他方でその問題と同様に、現実の人権侵害をも除去すべく努力するのが憲法に対する誠実な態度ではなかろうか。県民の代表から成る議会において、正当な手続を経て県民の願いが条例化されたにもかかわらず、その運用に適正を図るための作業に法曹が協力しないというのは、法治国家日本における法律専門職のあり方として甚だ疑問に思うのであります。一部の条項に問題を見出して、悪用の事例を想定したり、それがために人権救済の制度は一切設けてはならないという考え方や、針小棒大的な問題指摘によって論点をすりかえるのではなく、よりよい救済制度をつくり上げるために協力すべきではないかと思うのであります。
 本条例の審査は長期にわたったもので、すなわち知事案、会派「信」案、県民に対するパブリックコメント、3度にわたる継続審査に対する決定に際しても、審議未了、廃案の主張はなく、この間も議員の中には、真摯な審議をせず、この期に及んで反対と異論を唱える態度は極めて遺憾であり、議員活動の態度として好ましくないと思うのであります。議員は評論家ではありません。問題の緊急性は政治家として理解できないのでしょうか。
 条例施行後問題があった場合は、手直しする点は議会も執行機関も同一の認識を共有しているのであります。委員会活動を適正ならしめるのは、議会の役割であります。運用の円滑を図るよう期待するのが適切な態度ではないのでしょうか。
 私は、その思いの一端を申し上げました。知事の所見を伺うものであります。
 第1回目の質問を終わります。

◯知事(片山善博君)
 いわゆる人権救済条例についての杉根議員の御見解が何点か述べられたと思います。
 最初に、目を覆うばかりといいますか、唖然とするような誹謗と中傷のメールなり、寄せられたということはもう事実でありまして、私もその一端を県民室などに届きましたものの中から見せてもらったのですけれども、何ともひどいものだという感想を持ちました。先ほど杉根議員は、悪質な、悪質なといいますか、国民の反応と、こうおっしゃいましたけれども、正確に言いますと、やはり国民の中の一部の反応でありまして、国民の多くの皆さんがああいうメールとかファクスを寄せているわけではないのでありまして、全体から見ればごく一部でありますけれども、しかし、少なくとも国民の中にあのようなどろどろとした、非知性的といいますか、そういう部分があるということは、私も本当に残念なことだと思います。これは今に始まったことではなくて、実は例のホテル税論争をしたことがありましたけれども、私は論争したつもりはないのですけれども、ホテル税について、税制の専門家と自分で言うのもちょっと変ですけれども、税を多少かじった者として税制を批判したのでありますけれども、そのときも実は似たような反応が随分寄せられました。ですから、日本の中にやはりアングラ的にそのような勢力といいますか、そういうものがあるのだなと思って、気をつけておかなければいけないと改めて認識をしたような次第であります。
 ただ、昨日も申し上げましたけれども、批判というのは、今杉根議員が御指摘になったようなそのような悪質なものばかりではなくて、実は理性的な、それから人権救済条例の条文に即して、他の理念、例えば憲法に規定された表現の自由でありますとか、そういうような他の理念に照らし合わせた異論、反論も実はあったわけでありまして、それらが、例えば法曹界でありますとかマスコミの関係者の皆さんから寄せられているということであります。それらはやはり分けて考えなければいけない。同じ批判だからといって、全部はしにも棒にもかからないものだというわけにはいかない。やはりそれはきちんと分けて、取るに足らないものは、これはしようがないですけれども、耳を傾けるべき内容のあるものについてはやはり真摯な受けとめをしなければいけないと思っておるところであります。
 その中で、そもそも条例は県民の皆さんの考え方を酌んで県政に反映したものなので、外部からの組織的なものでありますとか、そういうものについて、余り重きを置く必要はないのではないか、むしろそういうことは地方自治の制度の趣旨に反するのではないかということをおっしゃいましたけれども、それは一理あると思うのです。それは先ほど私が言いました悪質なようなものについて、例えばもう鳥取県に行かないぞと言われたからすごすごと条例を変えてしまいましょう、やめてしまいましょうというのは、これは本当におっしゃったように地方自治の制度の趣旨に反するわけであります。そうではなくて、真摯な批判でありますとか意見でありますとか、そういうものについてはやはり耳を傾ける姿勢というのは必要だろうと思います。特に、何回も言いますけれども、この条例を円滑に、かつ適切に運用しようと思いましたら、やはり法曹の協力というのが非常に重要な意味を持ってきますので、その法曹の皆さんの協力を得るという一環として、その人たちも含んだ学識経験のある方々のこの問題についての見解に耳を傾けるということは、やはりその運用の前提としては必要ではないかと思って、今その準備作業にかかっているところであります。
 憲法に抵触すると批判するのであれば、むしろ、例えば人権委員会に入って、そういう抵触する事態が生じないように一緒になって努力をするべきではないかというような御指摘もあったと思いますが、それも私も一理あると思うのです。私も実はそう思っております。例えば人権救済委員会のほとんどの委員が法曹で占められますと、その運用は恐らく非常に人権を配慮した、かつデュー・プロセスといいますか、適正手続も踏まえた運用になるでありましょうから、むしろ入っていただいて運用していただいた方が問題ないだろうと私も思うのでありますけれども、これも相手のある話でありまして、当該法曹の皆さん自体が、それよりもまず入り口の議論をしたいと、こういう御意見もありますので、相手のある話ということで、まず入り口論になるかもしれませんけれども、意見も伺うということにしたいと思っているのであります。
 条例の審査は、非常に長い期間をかけてやってきたのに、議会の中で必ずしも真摯な審議をしないで反対を唱えていた人もいて遺憾だと、こうおっしゃったと思うのでありますが、これは議会の中でよく御議論ください。執行部がとやかく言う話ではないだろうと思います。
 条例というのは、一たんつくって、それを施行して、その段階でふぐあいがあれば手直しをするということではないかということ、これもそのとおりなのです。本来、立法機関というのは立法をして、それを執行機関が執行する、その段階でふぐあいが生じる。例えばそのふぐあいというのもいろいろなタイプがありますけれども、1つは、典型的な事例で言いますと、施行してみたら、例えば憲法に違反した事態になったとか、上位法に抵触するような事態になったということになりましたら、それは司法の場で調整されて解決が図られる。そのときに本当に憲法違反の条文であったとか、上位法に抵触する条文の規定があったということになりましたら、その個別の司法の裁判を通じて当該憲法違反とか当該上位法に抵触する規定が無効となる、これが司法による違憲立法審査権ということでありますけれども、そういう形で是正が図られる、これが1つの典型的なタイプであります。そこまで至らずとも、執行してみて執行機関でやってみて、どうもこれはぐあいが悪いと、執行しにくいとかふぐあいが生じるということになりましたら、こちらからその改正案を出すということも1つのパターンであります。それから、やってみて、執行部は全然問題意識がないけれども、はたから見ていて、例えば当の立法した議会から見ていて、どうも何か変なことを執行部はやっているぞ、これは条例を変えなければいけないというようなことで、議会が主導で条文を変えるというのも、これも1つのパターンであります。いろいろなタイプがありまして、立法というのはやってみてぐあいが悪ければ直していくというのが、これが1つのあり方だろうと思います。
 ただ、今回のケースは、執行部として運用に取りかかろうとしている段階なのですけれども、その段階で一番重要な要素であります法曹の協力というものが、いわば門前で拒否されている段階でありまして、こういう状態がずっと続きますと、これはなかなか円滑な執行に至りません。そこで、法曹の皆さんの円滑な協力を得るためにはどういう方途があるのか、どういう方策があるのかということを探らなければいけないということ、そこで解決の道を見出すということが我々としては求められるわけでありまして、今その手続、作業に入ろうとしていると、こういうことであります。

◯22番(杉根修君)
  時間のぐあいがありますから、人権条例からいきます。
 今までいろいろと議論してきておりますから、それは重複はなるべく避けていきたいと思うのですが、私は、報道に対する恐ろしさ、これは俗に言うペンの暴力ということがありますね。そういうことに関しては我々はむとんちゃくというか、割と今までは、権力に対する批判とか、知る権利に対する情報提供というすばらしい公器としての行為、こういうものを信頼し、もちろん我々はマスコミというものを、むしろ我々の生きる社会の中で非常に重要な位置を占め、そういうところの情報を得ながら私たちも生活していることに対しては、非常に尊敬しておるのです。しかし、裏を返せば、きのうも名誉毀損とかなんとかの話がありましたけれども、そういう内包する姿というものが如実に公平性を保っていくという筋道ならいいけれども、1つの主観や記者の考え方によって編集の仕方が変わってみたり、あるいは、例えば人権条例になれば、これはけしからぬという考え方や、まさに法曹界とかマスコミの理論というのは、僕はこれは正しいと思っています。そういう意味合いの正しさの中の我々との議論とはまた別途のものですが、そういうものを正面的にとらえていくという立場での議論ならいいのだけれども、むしろ、あの人がこれを言った、あるいはメールや何かでこういうことが言ってある、悪い部分だけを取り上げてそれを編集していくという姿は、では、やろう、この条例を高めていこうとする筋道というのが失せていくのです。だから、新聞の論調とか報道は、社会をすごく民主的に高めていくという側面と、全く逆の方向があるわけです。そういう恐ろしいことがあるのです。
 きのうの知事の答弁、マスコミの人権侵害は人権侵害救済委員会にはなじまない、刑法にゆだねる、任せる、例外規定があってもよいという発言がありました。これは、知事の考え方は、マスコミを除外しないとふぐあいが出るということなのですね。
 そういうことになってきますと、私は、もう1つ、知事が、議会が行政の無謬性を信頼した結果、執行部案を踏襲したということが、内心じくじたるものがありますと。ということはどういうことか。これは、知事案は理論と判断などが誤りであったということですね。そういうものを議会は踏襲してしまったと。えらいことをしてしまったな、もっと法曹界は早く言ってくれよ、そうすれば中止するだったのに、後の祭りだと。私は、議会での議論や、今まで我々議会が取り組んできた議論の中でのこの条例という具現化するときの議論というのは、それは議場ではないかもしれない。各委員会、各派、各いろいろなセクションの中で議論して、それを集積しながら一定の方向をつくり出してきた、この道筋、プロセス。知事もパブリックコメントを通して投げかける、あるいは協議会等に投げかける、さまざまな分野の中で努力なさった。そうか、ここが一応着地点だなと、そこで1つの考え方をおさめていくという行為は、今の我々の議会制民主主義の中では極めて正当なことなのでしょう。そうした議会が、あなたの思いをまねしたから、議会は、僕の言葉で言うならば、あの連中は無能だな、主体性がないなということになるのだろうかな。僕のうがった考えなのでしょうか。言うなれば、知事のいわゆる無謬性ということは、知事案は理論と判断で誤りがあった、それを議会が踏襲したとは何事か、だから言われても仕方がないではないかということになってくると、これはちょっと僕の邪推かな。言い方がなにでしたら失礼かと思いますが、私はきのうそう思ってしまった。
 もう1つは、この拒否の理由が相当かどうかということをチェックできるように改善の余地がある、こうおっしゃった。それは知事の答弁としていいのでしょう。だけれども、私は、ここの中身は、これは議会側に修正を申し入れるという下心があったのだと、そういうふうに誘導していく、そのように感じてきたのです。
 そうすると、国民の支持、内閣府における世論調査、いわゆる人権に関する調査がありますが、こうしたものを見ましても、公的機関に相談したいことや法的な知識や経験に基づいたアドバイスをする者とか、あるいは公平、公正な仲裁が必要だということが内閣府の調査でも国民の意思が明らかなのですよ。ところが、我が鳥取県においても実態調査の中にそういうことがあるのです。これは平成16年度の県民の人権意識調査でも明らかです。公的機関に対する相談の問題とか、法律的な知識や経験、それに基づいたアドバイスとか、公平、公正な仲裁が欲しい。それは今までも我々がいろいろと考えて人権侵害まであった。ところが、弁護士さんにお願いしたり裁判所に行く、そこの敷居さえもまたがれない。経済的を含めてできない人というのがたくさんおるわけです。では、だれがこの人を救済するのか。だれがこれを。だれがするのですか。私は感情的に反対する人にそれを持っていきたいです。あなた解決してください、お願いしますと。そういうふうに僕は精神が高ぶるので、何かストレスがたまって、このごろ僕は体質がおかしくなった。そのくらいこの問題で寝れないのです。
 そうすると、今、現実に必要性、切迫性というものが、この法務省の人権擁護機関の扱いの中ではどうもおかしい。しかし、事件というものは全国では10%以上もふえておるわけです。そういうデータもある事実に対して、知事、どういうふうにお考えでしょうか。お聞かせください。

◯知事(片山善博君)
  この人権救済条例に関しまして、杉根議員の方から幾つか論点が提示されまして、それに私の考えますところを少しお答えを申し上げたいと思いますが、最初にマスコミ論があったと思います。マスコミというのが、ペンの暴力につながるのではないか。恐らくは、そんたくをいたしますと、今回の議会がつくられましたこの人権救済条例について、総じてマスコミがネガティブな立場で記事を書いたので、それが大きな反響を呼んで、ネガティブな批判とかメールとかが寄せられたのではないかと、こういうことだったと思いますが、そういう面は多分あったのだろうと思います。ただ、これも、マスコミ陣が今回の条例を見て恐らく素直に反応したと言うと変ですけれども、私はマスコミの皆さんが悪意を持って何か一種の政治運動的にこれをとらまえて論調をつくったわけではないと思います。議会でつくられた議員の皆さん方とは考え方が違う、それから立場も違う、そういう中で真摯にこの条例というものを批評といいますか、論じられた結果だろうと思います。ですから、それは、立場を変えれば誤解だとか、一方的だというそういう批判にも当然なり得るのでありますけれども、ただ、それは、そういう見解の相違というのは世の中にはあるわけでありまして、であればこそ、その見解の相違というものを埋める努力を双方でしなければいけない、それがPRとか、情報提供とか、マスコミに対して啓発というのは変ですけれども、啓発というような問題につながってくるのではないかと思うのであります。
 一般的に、マスコミの皆さんが本当にいつも厳正、公平、だれから見ても中立ということは、これはあり得ないわけであります。やはりマスコミといえども生身の人間の皆さんで構成されておりますから、そこには当然主観でありますとか、記者、編集者のそれまでの経験でありますとか、物の考え方というのは当然入ってくるわけでありまして、それを全く無味無臭の中立的なものにせよというのは、それは無理であります。また、そういうものは、私はこの世の中には恐らく存在しないのだろうと思います。主観と主観のぶつかり合い、中には誤解もあるかもしれない、そういうものが寄り集まって、その中でもまれて、1つの合意というか、総意というか、物の言い方をかえれば真実というか、そういうものが形成されてくるのではないかと思うのであります。
 そういうことは不純で、やはりきちんと万人が見て正しいものしか提供してはいけないということになりますと、これはもうそれこそ検閲の制度になりまして、行政から見て正しいものしか掲載してはいけないという、これは検閲でありまして、それは私は決してよくない社会だと思います。ですから、この世の中というのは生身の人間で、間違ったり、誤解があったり、いろいろなことがあって、その中でもまれていくのだという、ちょっと不純と思われるかもしれませんけれども、そういう物の見方をしなければいけないのではないか。検閲による統制する社会というのは決していい社会ではありません。それは絶対避けなければいけません。ですから、どっちがよりましかという、こういう話になるのだろうと思います。
 マスコミを除外するということについて、幾つかの異論、マスコミを除外するという手もありますよと、そういう手法もありますよということを申し上げたわけで、これは一部誤解があってはいけませんので申し上げておきますと、これは運用面で除外する手法もありますよと言ったわけでは毛頭ありません。除外しようと思えば、当然立法上の措置が必要になりますから、条例の修正ということが必要になると思いますけれども、それを前提としての話ですけれども、マスコミとの関係では、今回の人権救済条例と憲法に保障された表現の自由、それをブレークダウンして取材の自由というものとの兼ね合いが懸念として提起されたわけです。これを払拭しようと思いますと、本当に払拭しようと思いますと、かなり詳細な手続規定でありますとか、概念規定でありますとか、早い話が人権侵害の概念規定からかなり克明に定義をしないと、なかなかこの問題の解決はできないのだろうと思います。
 したがって、そっちを追求するというやり方も恐らくあると思いますけれども、もう1つの立場としては、この際、マスコミ関連事案というのは本県でもさして問題になっていないわけでありますので、この人権救済条例がねらいとしているフィールドではありませんので、それだったら便宜上除外しておくという、そういう立法上の態度もあり得るのではないでしょうかということを申し上げたわけであります。それは、恐らくは、でき上がった条例を見た場合に、ちょっとでこぼこみたいな感じで、条例の規則正しさを追求しようと思ったら、やはりそれはちょっと変ではないですかと、こうおっしゃるような方もおられると思うのですけれども、そこは多少目をつぶって、しばらくは適用除外としておくやり方もあるのではないでしょうか。もし、そうやってやってみて、マスコミ事案がいっぱい出てきたと。では、その場合にどうするかというのは、そのときに考えたらいいのではないでしょうかという態度もあるのではないでしょうかということを1つの選択肢として申し上げたわけであります。
 では、マスコミ事案が仮に出てきたら当面どうするのですかというと、これは今でも刑事事件としては刑法、民事の問題としては民法の不法行為による損害賠償請求の問題がありますから、今でもちゃんとそれは手当てはできるわけであります。ですから、マスコミ事案は基本的にはもうそういう司法の場でやってくださいと。今回のこの県独自の準司法的作用としての人権救済委員会の対象からは外しますという、そういう選択肢もあるのではないですかという、こういうことを申し上げたわけであります。
 行政機関の拒否の問題について、私はきのう、行政機関が一方的に拒否ということがまかり通るのは、一般の住民の皆さんとの関係で見ますと、やはりそれは官に甘くということになるのではないでしょうかということを申し上げたわけであります。立法を誘導したのではないか、修正を誘導したのではないかとおっしゃいますけれども、そういう意図で申し上げたのではないのです。山田議員が、この行政機関の拒否の規定があるけれども、これは決して官に甘く民に厳しいということではないですねと言われますので、いや、私としてはやはり、官に甘くという表現は適当だったかどうかわかりませんけれども、官にすごく理解と配慮が行き届いているという、そういう印象を持っているものですから、客観的に見たら、やはり官に甘いと見られてもしようがないのではないでしょうか。
 もう1つは、行政機関に拒否権を付与しているというのは、当然行政機関に誤りがない、無謬性ということを前提にしているはずでありますけれども、昨今の事象を見ましても、決して行政機関といえども無謬ではない。これはもう昨今だけではなくて、ずっと昔からそうなのですけれども、決して人間のやることに全く無謬というのはあり得ないわけでありまして、やはり官といえども、官庁といえども誤りがあるかもしれないということを前提のシステムを構築した方がいいのではないか、その方がより客観的になるのではないかということを申し上げたわけであります。
 その問題につきまして、もともと知事提案といいますか、執行部提案の原案に入っていたのだから、それを踏襲しただけなのにという、そういう意味合いのこともおっしゃっておられました。
 私はきのう率直に申し上げたつもりなのですけれども、知事提案をしましてから、その直後に、昨年の12月のことですけれども、弁護士会の皆さんから幾つかの異論、反論が出てきたわけであります。これが本当にパブリックコメントの段階で出ていれば、恐らく何点かは修正する気になったと思います。ところが、パブリックコメントのときに全然それが出てきませんでしたので、審議会の皆さんで議論していただいたものの1つの成果として案をまとめましたので、それを素直に出したわけですけれども、出した直後にいろいろな根幹にわたるような批判も出てきたわけであります。そのときは、言葉は悪いですが、我々にとってはちょっと後の祭りで、タイミングを失してしまったわけであります。したがって、この議場で、そういう事情でありますから、議会でこれから審議をしていただく過程で県弁護士会の皆さんの意見などにも耳を傾けていただいて結構ですから、よく御議論してくださいと、異例ですけれども、こういう話を注文つきで提案した格好になったわけであります。そういう事情は昨日も申し上げたつもりであります。我々が出したときは間違っていなくて、議会が別の形で立法したら同じ内容であっても間違っているということを申し上げたわけではないのです。当初からこういう話が出ていれば、もっと違った執行部提案になった可能性もあるということを申し上げたわけであります。
 そもそも人権救済条例の趣旨、意義は何かということでありますが、これも昨日申し上げたかと思いますけれども、本来は、先ほど申しましたけれども、刑事、民事で司法の場で解決するのが本来のやり方であります。やはり人権侵害というのは、例えば名誉毀損に当たるのであれば、刑法の二百何十条だったでしょうか、刑法で当然犯罪を構成することになりますので、刑事事案として処理される。それから、人権侵害事案が、刑事事案にはならなくとも民法上の不法行為を構成する、そのことによって被害者が何らかの形の損害を受けた、その場合には民法の規定によりまして損害賠償を請求することができるということになるわけで、それで本来はカバーできるはずなのであります。およそ日本の法的トラブルというのは、すべて司法の場で解決ができるということに道筋ができておりますから、実はそれで制度的には何ら問題はないのでありますけれども、しかし、現実には司法制度に本来なじむものであっても、実はそこまでいかなくて、悶々としたまま終わるとか、被害者が泣き寝入りをしたまま終わるという事例が山ほどあるわけであります。
 では、これをどうするか。それは裁判をしないのが悪いのだ、それは自業自得だというのも1つの態度でありますけれども、しかし、往々にして弱い立場にある方々とか、世の中では小さい存在にある方々こそが、司法的救済を得られなくて滞留しているという実態があるものですから、それならば、これもやむにやまれずですけれども、司法に至る前の段階、至るまでの段階として、行政が準司法的作用、準司法的機関というものを独自に設けて、ここで何らかの現実的な解決ができる、そういう道筋をつけたらどうかというのが今回の人権救済条例の発端だろうと思います。私は、いろいろと条例に対する副作用なんかの批判はありましたけれども、本来のこの条例自体がねらっている意義については決して失われるものではないと思っているところであります。
 したがって、そのような意義を持った条例でありますから、できるだけこれを円滑に運用、執行する。では、そのためには今何が障害になっているのかということになりますと、現実の目の前の障害というのは、法曹の皆さん、すなわち弁護士の皆さんの協力が得にくい状態にある。しかも、弁護士の皆さんというのは非常に重要な役割、パーツを担っていただくことが期待されるわけでありますから、今そこの関係の皆さんの理解と協力が得られるための方策探りという段階にあるということであります。

◯22番(杉根修君)
  法曹界の協力を願う、僕も大賛成です。これはぜひ御努力いただきたいと思いますが、私、大変失礼と思いますけれども、私個人の学習の意味で、ついこの間、山陰中央新報に、強権とか法抵触、構造問題、議会はどのように回答するかという記事があったのです。これをちょっと申し述べますので、知事の考えを聞いてみたい。
 「抵触を危惧」との見出しがありますね。これは法律への抵触等の問題は、最終的には裁判例の積み重ねによって明確にされるべきものであり、公開の裁判の場で明確化されるのはむしろ望ましいことである、法律に抵触するかどうかについては議論が分かれる部分があるが、それを理由にして現実に蔓延する人権侵害事象を放置してよいことにはならないと思うわけです。この考え方。
 もう1つは、県外の者による侵害事案を対象にすることはということがある。侵害事案が行政上の領域を越えて多発している現実を考慮すれば、十分な救済を図るために、国の法律がない以上、必要な規定と言えるのではないか。例えば、いつだったか、行政書士の戸籍謄本の不正な取得の問題がありました。これが、鳥取県が倉吉市、岩美町、境港市、国府町、溝口町、16件あったのです。知事も何かのフォーラムでちょっと話されておりますが、弁護士とか、あるいは警察とか、司法書士とか、そういう人たちのあれは特権として出せるようになっていますね。行政書士がそれを使って、全国でだっとして、興信所とかいろいろな人にこれを売るのです。商いをしている。商いをするのです。その商いをするという行為は広域にまたがるわけです。確かに属地的な考え方としては、鳥取県の中で、それ以外に起こったものは知らないよと、そういうことにならないのです。そういうふうにならない。広域的なものが出てくるのです。だから、自治権の原則は守っていくのだけれども、そういう広域的な犯罪によるような動きというものがあるわけで、こういうことになれば、これはけしからぬということになりますか。
 もう1つ、過料の問題ですが、確信犯的な人権侵害を行う者や不誠実な対応に終始している者への対処としては有効であり、不可欠な手段と。このことが、何と言ったらいいのでしょうか、もとより我々議会で議論したところの意思というもの、考えというものがここのところで非常に歪曲されておるのです。それは憲法だって解釈何とかというのがありますから、それは解釈によって違うかもわからない。あるいは法律の専門家でも見解は違うかもわからない。けれども、我々は鳥取県の民主主義のレベルから考えて、あるいは議会の良識の中で物を判断するときに、そこのところはこれだというふうに決めてきたのですよ。それはいろいろな事例を参考にしながらですよ。けれども、それを拡大解釈して、隣の県やあっちの方やみたいな話はないのです。あくまでも軸は鳥取県なのですよ。これは常識なのです。だから、もとより自分が人権侵害などをしていないと堂々と主張しているけれども、完全に調査を阻むような、こういう事態をなかなか想定できないのです。そういうことが困難なのです。そうすれば、そういうことによって、やはり我々の思いというものを話して、こういう人権問題というのは間違いはしてはならない。けれども、そういうより効果的にするということが大事なのです。
 もう1つ、公表。中立的な第三者から成る委員会が、調査を重ねた上で、双方当事者が納得するような形で解決するのが第一であって、その結果、是正の勧告を受け、それでもなおそれに従わない場合に初めて行われるものであり、この部分を針小棒大に問題視することはいかがなものであるか。そしてなお、文中に、ありとあらゆる摩擦が持ち込まれる可能性があるというふうに書いておりますが、それならば、この方がより県民にとって大変使いやすい制度ではないですか。でしょう。
 そして、この中に、議会が立法者として答えるべき責任を負うという指摘がありますね。立法者としての責任は、現実の問題を立法により解決するという形で果たされている。一般質問やこの議場の中の議論で、たくさんの人がこうして議論をしながら、必要に応じて疑問点を明らかにするように努力されているということですね。それ以前に、パブリックコメントの段階で指摘もせずに、議会各会派の努力が結実しようとする段階に至って初めて異論を宣伝し始めた報道や弁護士会の姿勢の方が不誠実だと私は思うのです。誠実さというものは、我々議会が未熟なら、飛び込んできてほしい。それが民主主義の姿ですよ。報道機関も弁護士も特権ではないのです。我々国民の財産なのです。そういうベースに立って我々はきておるのです。
 杉根さん、おまえ余り言うな、弁護士とか警察とか新聞報道に言うと、書かれるぞ、やられるぞ、次の選挙でやられるぞ、僕にこう言う人がおるのです。そういうことはないのでしょう。そういうことも蔓延する状況はもうなくなったのでしょう。我々、チェックといったって、戦時中のチェック問題、昭和46年の参議院選挙の公報に、差別の記事が載ったのです。時の中央選管の委員長、苦悩に苦悩だと。表現の自由、チェック、しかもそこに差別記事とはどういうことかと国民世論は議論になった。そして最終的に各地方選管にゆだねた。まだ資料はありますが、その部分を鳥取県選管は削除をしたのです。どうしてチェックし、表現の自由を逸脱させるのですか。そのときの判断は、いかに表現の自由があったとしてもこれは問題だというふうに言われて、削除されましたが、時間がないので、言いたいことはたくさんあるけれども、10時間は欲しいのだけれども、時間がありませんから、まず知事のお話を聞きたいと思います。

◯知事(片山善博君)
  引き続きこの人権救済条例につきまして、幾つかの論点提示がなされましたけれども、気のつくことを、答弁であったり、一部はコメントになるかもしれませんけれども、申し上げたいと思います。
 最初に、いわゆる県外事犯、県外事案の問題でありますけれども、これは経緯から言いますと、たしか昨年の執行部提案には違った形だったと思うのでありますけれども、この適用を拡大した形で議員立法の中に組み込まれた条項であります。杉根議員は、県外であった事案についても、本来ならば国法、国の法律でもってこの問題はカバーされるべきものが、今は国の法律がまだありませんから、人権救済法ができておりませんので、したがって自治体の条例でカバーしてもいいのではないかという、こういう御趣旨だったと思いますが、今の地方自治法の規定によって各自治体の条例に認められている権能から言いますと、今の問題になっております人権救済条例の当該条項というのは恐らく無効になるだろうと思います。それはどういうことかと言いますと、仮に現在の条例の規定でもって県外事案を取り上げて、勧告なり公表なりと、こういう話になったときに、それが最終的には司法の場に持ち込まれて、その根拠条文である人権救済条例の県外事犯を対象に取り込んだ条項が法律違反、地方自治法違反になるのではないですかという訴訟が行われたときには、多分、多分というか、まず地方自治法違反になるということだと思います。
 したがって、私どもこれを執行するという立場に立ったときに、この条項の部分というのは空振りだというふうに実は認識をしております。もちろん修正をするのが一番いいのでありますけれども、仮に何らかの事情でここが修正されなかったとしても、恐らく空振りになるだろうと、こういう認識をしております。
 その際に、先ほど杉根議員から、例の行政書士が、本来の目的ではなくて、他の自治体、他県の自治体に戸籍謄本なんかを、住民票だったでしょうか、個人情報について請求をして、それがまんまと取得されて悪用されたと、こういうケースがあるではないかということをおっしゃられましたが、実はその問題は、分解してみますと幾つかの論点になるのですけれども、1つは、行政書士だから出せる、行政書士だからもらえるとおっしゃいましたけれども、実はそれは便法で今そうやっているだけでありまして、本来はそれぞれの自治体、すなわち市町村の窓口の職員が、本当に行政書士であるかどうか、その人が本当に法律上認められた目的にしか使わないのかということを本当はチェックしなければいけないのです。それを怠って、行政書士からこういう様式で請求が来たら出してもいいよという総務省のマニュアルによって仕事をしているから、あんな事件が起きるわけであります。本当はきちんと1件ごとに確信が持てるまで調べなければいけないのです。それを怠っているからあんなことになったという、そういう問題であります。ですから、これはマニュアル主義がああいう弊害を生んでいるわけであります。あんなマニュアルは取っ払ったらいいと思うのです。本来、法律に忠実にそれぞれの自治体の職員が法律にのっとった仕事をしなければいけない。これは1つの教訓であります。
 もう1つは、でも神戸かどこかの行政書士がうそをついてとったではないかと、これは私は、それこそ司法の場で損害賠償請求するとか、もし刑事事件になるのであれば告発するとか、そういう解決ができるのであります。この人権救済条例で県外までカバーするという規定がなくても、現在では、民事、刑事で損害を回復するとか、秩序を正すということは可能なわけでありまして、そういう認識も持っておく必要があると思います。
 過料、すなわち過ち料の問題、これもきのう少し議論したと思いますが、繰り返しますけれども、これは刑罰ではなくて、行政上の秩序罰ということで、間接強制の1つの手段であります。このこと自体は特段責められるべき問題ではないと思います。過料を科すというのはよくあることでありますから。
 ただ、今回のケースには、やはりそもそも物事の発端となるべき人権侵害事案というものの定義が不明確である。不明確というと失礼ですけれども、あいまいな面があるという危惧が寄せられておりまして、そういうあいまいな中で広く網をかぶせられて、しかも過料を科すに至るまでの手続が一方的、独断的になされるおそれがなきにしもあらず。私が運用する、私がというか、私が任命した委員が運用する委員会では決してそんなことにはならないと自信と確信がありますけれども、一般論としてはそういう一方的な運用はなされないとも限らない。といいますのは、手続がきちんと明確に書いておりませんので、そうすると、そもそも人権侵害事案の定義があいまいなところがあって、運用が一方的になる可能性が全くないわけではないという二重の危惧で連乗されまして不安が募る。そういう中で過料が科されることに対する不安とか不満とか、そういうものがあるというふうな、これは立場を変えて見ればそういう推論も成り立つのではないかということを昨日申し上げたわけであります。
 したがって、これを解消するには、例えば思い切って間接強制の手段としての過ち料という手法ではなくて、別の手法を探るということもあるかもしれませんし、一方では、人権侵害事案の定義を非常に厳格にするとか、過料を科す際の手続を、相手の弁明の機会も含めて非常に厳格に書くとか、そういう手法もある。これは選択の問題であります。
 勧告、公表ということにも同じことがありまして、これもその定義があいまいなところから出発をして、最終的には公表という非常に不名誉なことに立ち至る。その間の適正手続というものが必ずしも明確にされていないではないか。これは当人の弁明とか、釈明とかの機会の付与も含めた手続規定があいまいではないかというようなことが指摘をされているわけであります。ですから、公表というのも、これは一種の間接強制手段でありますので、そういう手法しかないのかどうか、ほかにあるのかどうかということ、これも立法上の選択の問題であります。
 あとは、司法の場、例えば刑事訴訟法なんかで決められておりますいわゆるデュー・プロセス、適正手続を、この人権救済の事案の処理の過程でも非常に厳密に正確に書くかどうかというのも、これも1つの選択の問題だと思います。
 議会の責任論について、議会が長い間かかって審議をして出した結論に対して、後から異論を出すというのは不誠実ではないかということをおっしゃいましたけれども、それはそういう面もあると思います。いささか私も議会の皆さんに御同情申し上げる面もあるのでありますけれども、実は去年同じことが私どもにもありまして、やはり正直言いまして、どうしてもう2日ほど前に出してくれなかったのか、せっかくパブリックコメントの期間をとっているのに、そのときはナシのつぶてで、出してしまってもう取り戻せない状態になったときに、さあといって畳みかけるように異論、反論を出すというのは、後出しじゃんけんみたいでやはりちょっとおかしいのではないですかと私どもも思いましたけれども、だけれども、人間のやることですから、そんなにみんなが合理的にきちんと完璧にやっているわけではないわけで、パブリックコメントのときには余り気がつかなかったけれども、提案した後で新聞でよくよく考えたら、やはり問題があるよというのも、これも忙しい法曹の皆さんのことですからそういうこともあるのかなと思って、私もそのときはそういうふうに観念したのであります。
 それは、やはり自分だってあるのです。国が法律なんかを検討している。そういうときには全然文句を言わないで、できてしまって痛烈に批判するなんてことは、私どももあるのであります。それは決して悪意があって、もう後戻りできない状態になって攻撃をするということでは決してないのです。やはり日ごろの忙しさにかまけて、ふだん新聞に活字が躍っていても余り目にとまらないで、いよいよ成果品が出てきたときに、じっくり考えたらこれは大問題だというようなことで意見を言ったりすることはやはりあるわけでありまして、相手の立場に立てば、そういうこともあるのかなと思います。
 それはマスコミの皆さんだってそうだと思うのです。去年の12月の段階でほぼ似たような案が出たときには、ああいう今回のような大がかりなネガティブキャンペーンというのはなかったわけであります。いよいよ成立して、本当に後戻りできなくなったときに、一斉大ネガティブキャンペーンが張られたということで、私は、決してそれは悪意ではなくて、怠慢ということでもないのですけれども、やはり夏休みの期間が過ぎてから宿題に取りかかるような、似たような、そういう状況があったのではないかと。子供をたくさん持っておりまして、子供なんかを見ておりますと、やはりそういうことが類推されますので、そんなことはやはり人間の社会にはあるのかなと思っておりますので、ぜひ今回の問題も、法曹界の皆さん、マスコミの皆さんがやや後出しじゃんけんみたいなことになりましたけれども、そういう点は少しおおように見てあげていただければと思っております。

◯22番(杉根修君)
  時間が来ましたので、知事の思いもわかります。それで、私、難産の子は育つと言いますから、非常に可能性があるわけです。それでやはり知事と議長、議長は議会を代表しますが、その辺の問題点の整理は、何だと言ったって法曹界、しかもマスコミの皆さんの協力を得ていくという筋道は、お互いが認め合っているわけです。そういう中で、懸命な努力によって出発の日までに県民総ぐるみでこの問題が解決されて、そして出発できる状況を、私は特に望んでおる。それは、県民という土台が一番大事なわけで、我々の政治哲学は、すべて県民という主体者、主権者によるわけですから、そうした思いが、より専門家を求めていく道程として、やはりぜひとも知事なり、議長の努力を、我々も努力していきますので、その点をひとつ最後にお願いをしておきたい。

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